藤井棋聖誕生(と、歴史的偉業を手放しで喜べない自身の憂鬱)

世の中も、自分の周辺も激動の二週間であった。

その最たるものが7/16の藤井棋聖誕生。正直戦前は3-1で奪取、というシナリオは微塵も考えていなかった。自分はしょうもない話のせいで、リアルタイムでの観戦はできなかったのだが、間違いなく歴史に残る瞬間だろう。

しかし、棋譜や投了近辺の録画映像(渡辺二冠がカメラ側に顔を向けて息を吐く箇所があるのだが、あまりの精気のなさに、あたかもエクトプラズムが抜け出すようにさえ見えた。およそ見たことがない表情であり、かなりショックを受けた。)やその日のうちに更新された渡辺ブログ、など色々見て、率直に言えば深い疲労感と、今後数年で自分のプロ棋界への興味が減衰してしまうのでないか、というこれまでにない不安を覚えた。

コロナというイレギュラーがあったこと等の外部環境の影響は無視できないといえども、明らかに棋界1,2を争う水準の渡辺二冠に対して17歳時点でこのような、内容で圧倒する将棋が指せてしまうという事実、更に言えば今後も藤井棋聖の棋力は上昇カーブに乗って向上し続けるだろうことなどを思うと、一強時代が早晩訪れることはおよそ間違いないのではないか。

更に言えば、同世代「ライバル」(羽生九段に対する佐藤九段、森内九段)の不在と、ソフトにより戦法の収斂が進んだ状況(要は△8五飛を極めて名人に就いた丸山九段、藤井システム竜王に就いた藤井猛九段のような、イノベーションをもってして一躍スターダムに躍り出るようなプレーヤーがきわめて出づらい)などが、一層きわだった独占状態を作り出すことは想像に難くない。

現状で分の悪い豊島竜王名人とも、13歳差と谷川九段-羽生九段の年齢差より大きいことを踏まえれば、向こう6,7年すれば全盛期を過ぎた豊島竜王名人と全盛期の藤井の対戦成績は偏る方向に移る、というのは(フィジカルベースのみで言えば)自然な予想だろう。

もちろんこれらの予想は、事実のみに基づくもので、ある種「暗黙の了解」であった訳であり、「いつ」それが明らかになるか、という点が問題だったのだが、高校生という身分が藤井棋聖に与えていた時間的制約による棋力へのリミッタがコロナの結果外され、予想を超える速さで成長が進んでしまった、という結果が今回の全てかと思う。(書いていて思うが、SFのような筋書きである)

その結果、これまでのようなお気楽パヤパヤの、「若武者が王者に挑む」ようなストーリーが一瞬で超越されてしまい、今後下手をすると、シドが参入した後のFFTのような「粛々」、としか言いようのない状況が作られる可能性が高いのではないか、という予想が個人的にはある。そのときにプロ将棋の「勝負」という側面をどこまで楽しめるのか、自分の中の疑問が拭えずにいる。

個別の棋譜はある程度楽しめることを期待しているが、一方で、正直いえば、その「楽しめる」というところも(ソフトによる研究やそのフォローをもはや自分で実行できておらず、ブラックボックス化しているがために、「結論」を知らないという)自分の無知によるところが大きい、と感じられること、また、渡辺二冠が現時点で、藤井打破の手段が第三局のような事前研究を極めた状況でレールに乗せる手段しか思いつかない、といったことを言っていることも疲労感を強めるものである。

要は過去の森内-羽生の▲7四歩で終わった名人戦第2局のようなものを求めていくほか、勝負としての面白みがないという時代がもし本当に実現してしまったら、一介の素人には楽しむべき要素はどこになるのであろうか…?

個人的には、29連勝あたりから、藤井棋聖を「(従来の)プロ将棋をいずれ終わらせる役割の人」と半分冗談で呼んできたのだが、どうも(セルに完全体への移行を促したベジータ並みに)認識が甘々だったというか、本当にそういうシチュエーションすら見えてきた、と感じざるを得ない。どのように将棋を「楽しむ」か、という点の転換が、ここ数年棋戦中継を見るだけの安易な将棋ファンであった自分にも求められつつある、という気がしている。

 

 

追記

たまたま▲7四歩の話を引き合いに出したら、今話題沸騰の森内チャンネルでちょうど裏話をやっていたので、偶然に驚きつつ、リンクだけ貼っておく。

https://www.youtube.com/watch?v=_N44jOUNUR4&feature=youtu.be

この一局の重みを考えるとインパクトがある話で、確かに色々目が慣れてきた現代だから言える、という感もある。しかし驚いたのは事実。(が、個人的には全く悪印象などはない)

その後の名人戦の△3七銀もそうだが、やはり大舞台だからこそ、技術が既存の枠組みに与える変化が、ある種極まった形で顕在化してくるような印象を受ける。

最後の電王戦でも棋士とAIの間で出てくるような様々な論点が、非常に研ぎ澄まされた形で出てきたことが印象深いが、それと同様の現象と感じた。