2019.05.16
特になし。
2019.05.13
特になし。 某セミナーに出るが、工学の人との興味の断絶感が強まる。
2019.05.12
特になし。しかし日記を一週間まとめて書くとそれだけで馬鹿にならない時間が過ぎ去るのは驚きである。
ノートを書き直すなど。後は手遊びにVariational Bayesのコードを書いた。
コードを書くという行為が、ぼんやり考え事をするであるとか数式を追うとかに比べて好きではないので、どうしても初動に躊躇いが発生してしまう。
しかも理論の検証なので(予想し得ない面白い現象を求める実験ではないので)、その割にできても、maxでまあ予想通りですね、よかったよかったという感じの結果しか得られない(要は検算であり、根本的に予想し得ない深い驚きとかがない)。妥当そうな結果になっても喜びとかはなく、見た目バグがないことへの安心感のほうが強い。
要は(算数を通じて結果が得られており、本来数式の流れをフォローすれば正しいか否かがわかるものであるという意味で既知であると言える結果をあえて)電卓で検算するために、コーディングという行為を通じてバグが生じる可能性を発生させて、予想した答えが出てきたら、「バグがない」と安堵している訳である。この、「安心感のマッチポンプ」をどう見るべきか。(こういうと悪意がある表現だが、検算できてよかったよかった、という考え方も当然あるとは思われる)
類似した問題でいえば、一般的な工学シミュレーションも好きではない。未知の驚きがないので。(流石にこれだと表現が乱暴すぎるのでもう少し補足すると、結局シミュレーションのモチベーションとして、挙動がぱっと予想できないものとか、実測で観測できない内部現象などの把握を求めてやるわけだが、工学の局面では、得られた結果について定性的に違和感がないか、「解釈」がつけられるか(つまり既知の概念に照らして即腹落ちできるレベルの結果かどうか)という観点で結果を「眺めて」いるように見え、新しい現象やその原因を追求して理解する、という問題意識が相対的に希薄に見える。結果として、一連行為を通じて人類が「賢く」ならないので楽しくないし、成長をしないことに伴う無駄も多い)
頭が固すぎる、と言われればそれまでだが学部の頃の「刷り込み」の効果は思いの外大きかったようで、異分野のドグマ(これ自体悪意のある表現かもだが)に対して、スムーズに受容できることが思いの外多くない。情報科学は言わずもがなだし、統計学も結局最後アプリケーションに落とす、という部分に重きがあるように見えるところに漠然とした違和感がある。そんなに「手法」や実データ適用の「実績」が大事なのだろうか?
しかし最近の流行りのおかげで、本質的に確率的だったり挙動が複雑すぎるためにブラックボックスにさえ見える系が増えれば、分からない系の挙動を外から観測できるものを使って理論的に探る、という「物理」的行動原理ももっと自然なものとなってくるのでないか、という淡い期待(大変傲慢かつ野蛮な思想で申し訳ないが)。まあ御大層な事ばかりいっても、自分がやっているのはその更に手前で見た目シンプルな問題なのだが。
全然上とは関係ないが、PythonのDynamic mode decompositionのライブラリを発見するなど。この現代社会においては、本当に何でもあるのだな、とつくづく。
2019.05.11
起きるのが遅い。
日中に下の本をざっと読む。
もっと早くに読んでおけ、という話もあるのだが。本筋の研究の話も刺激的で面白くはあるのだが、横道のトリビア的な部分にも、どうしても目が行く。初めて知ったこととしては植村先生が企業の研究所にいたことがあったとか、(以前読んだ本の著者の)山口先生が上村研出身であったこととか。
全体としては古き良き時代、という感じ。基本的に出てくる研究者が現代よりもさらにハイソな感じだし、何かと人間の営みの香りがする。後は弟子の先生(固有名詞)に文章の雰囲気が受け継がれていると感じた。
出かけて外で古典推定の勉強をする。不偏推定量とかバイアス・バリアンス分解とか、この辺の根本的に重要に見える部分は勉強の甲斐があるのだが。しかし、読んでいる本のノーテーションがストレスフル。
帰宅後ずっとニコ生を見ていたが、最後は鉄板の勝ち方で永瀬叡王誕生。めでたい。
夜は下記の集計結果を眺める。「夢の丘」とか「ダージ」とか平成か!といわれてみて気づく感じ。上位なめのDTは、自分は2ndと5thよりも3rdと4thが好みなので、やはり嗜好の乖離を感じる。
暑さに耐えかねて、扇風機を出す。眠れずに目がさめるので、夜中に「足摺り水族館」を途中まで読んだ。これまでのものよりもさらに独特の雰囲気の強い、原液感。