2019.04.06

桜が終わりつつある、ということで家族で花見へ行く。

人生2度目の小石川植物園であったが、温かいし風もなく、それでいて良い具合に花が散って吹雪めいており、何だか信じ難いほど絶好の花見日和であった。途中でデザートの調達に寄った和菓子屋もえらい繁盛ぶりだったが(人気店というのを差し引いても)頷ける。

夜は叡王戦など見る。この大逆転はなかなか厳しいところだが、どちらも負けてほしくない取組、というのも最近では珍しいので、何とかシリーズとしては長くなる方へ行ってほしい所。

注文した「フィルカル」の最新号が届いたので眺め始めたり。特集冒頭の「ブックガイド」をおもむろに読むが、流石に予備知識や問題意識・哲学界隈での文脈が分かっていないせいか、ピンと来ない。というか、文章だけを読むと適当なものにすら見える。

 

フィルカル Vol. 4, No. 1 ―分析哲学と文化をつなぐ―

フィルカル Vol. 4, No. 1 ―分析哲学と文化をつなぐ―

  • 作者: 一ノ瀬正樹,稲岡大志,石井雅巳,酒井泰斗,朱喜哲,長門裕介,横地徳広,山田圭一,野上志学,大畑浩志,銭清弘,三木那由他,佐藤邦政,ドナルド・ジャッド,河合大介,谷川嘉浩,萩原広道,しゅんぎくオカピ,源河亨,飯塚純
  • 出版社/メーカー: 株式会社ミュー
  • 発売日: 2019/03/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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まず記事における分野の整理(教養系、エンタメ系、ビジネス、海外の翻訳)が、分野動向全体を俯瞰して覆えてるのかもよく分からない(たとえば、科学や生命などの問題に対して、哲学の立場から検討を行うといった試みはどのように位置づけられるのか)。

また、なぜこうした流れが今斯様に盛んになっているのか、ということの説明についてもピンとこない。キーとなる論点として、「非専門家による哲学への語り」というものには歴史があること(哲学についての語りについて、日本では非専門家による語りが受け入れられる土壌がもともとあった、と理解できるだろうか)、それと不確実な時代における人々の悩みに対する「有用性」のアピール、というものがあるが、これらが正しいとすれば、ラストのアカデミア研究者とポピュラー哲学者のコラボでより良いものができる、というのはあまりに適当というか、取ってつけたようなものと言わざるを得ない。(専門性による「品質保証」が受け手からは別に求められていない、というのがポピュラー哲学普及の背景のはずなので) 

後は、学位をはじめとして、アカデミアへの非常に強い信頼感が印象深い。一部の科学分野では、政府の基礎研究への投資の不十分さで人が流出したりとか、特にネット上における情報共有や環境の整備・発展があった結果、必ずしも狭義の意味での学位取得を経験していない「在野」の人が意義深い情報や新しい結果を提出することもあれば、それが専門家も注目するような内容であったりとかも増えているように見られ、要は「中身で価値が決まる」というある意味非常に明快な側面が上記のような背景で強まっている(一方で勿論「期待値」は情報発信者の専門性、具体的には学位取得などに、相関があると思うが)訳だが、それとは異なって、まず免許皆伝が必要条件である、ということなのだろうか。訓練の形態とかもよく知らないので、その辺りの評価とその理由なども興味がある。

また、文章から受けた上記の印象が正しいとするなら、文章中で何度か引き合いに出てきている数学ガールの例はポピュラー哲学書の「エンタメ系」に対置するにはあまり適切ではないと思われる。(あれが評価されているのは、表現・形式的な取っ付きやすさや耳目の集めやすさだけではなく、というよりはむしろ、驚くべき咀嚼・説明能力の高さと正確さをできるだけ損なわずに高みへ登らせる、志の高さの両立と思われる)

出だしから躓き気味なのだが、もう少し読んでみることにする。