週刊ダイヤモンド対談(井山六冠―藤井四段)

書店でおじさん向け雑誌である所の「週刊ダイヤモンド」の井山―藤井対談を立ち読み。全体的には特段印象深いこともないか、と思っていたが、最後の方で藤井四段の口から、「現状「レーティング」(ネット上で非公式に計算されている棋士レーティングのことかと思われる)で1700点程度なので、今年はこれを200点程度上げるのが目標」という言葉が出て、度肝を抜かれ、書店で吹き出しそうになる。

これがどれだけのことか、というのはレーティングのサイト

棋士ランキング

を見れば概ね明らかなのだが、以下ダラダラ書いてみることにする。

レーティング1700点というのは大体将棋界全体で上位30位程度(細かい人数の増減は生じるが、概ね一定)。

ここで面子を見てみると、面白いことにいつ見ても大体1700点を境として、それより上のレーティングを持つ人達の集合はこうした、「今が旬」といった勝ちぶりの人やタイトル戦・棋戦上位の常連から構成されている。

したがって、標語的に言えば1700点以上のレーティングを持つ人は位置づけとしては(非常に大雑把だが)「売り出し中の若手エース+タイトル挑戦の枠を巡って常に鎬を削っている上位棋士」といった所。将棋は棋力の差が結果に非常に反映されやすいゲームなこともあって、ここに入っている人たちが、真の意味で「タイトル挑戦をかけて戦っている」、といっても過言ではない。

だから、瞬間値で言えば今1700点程度(この前三枚堂四段に負けて下がったが)の藤井四段はこの枠内にいよいよ手をかけた、という形なわけである(これだけでもデビューからの期間を思えば十分すぎるほどだが)。

ところが、現在のレーティングトップの佐藤名人のレーティングは1880点台。過去にはトップが1900点オーバーのこともあったが、2000点には至っていない(はず)。

したがって、簡単な計算より、藤井四段が今後200点自身のレーティングを上乗せするならば、それは事実上の棋界トップ、という事に他ならないわけである。デビュー2年にして、棋界トップという驚愕の目標。

(勿論レーティングはあくまで一つの指標であり、それはタイトル奪取とは別の側面を持つ指標である。レーティングが高い人物は基本的にたくさん勝っているわけだが、レーティングの上昇・下降は自分の保持する点数と対戦相手の点数から定まるのみであり、特定の相手に特定のタイミングで勝つ、ということが意味を持たない以上、ある意味で「ここ一番」というような概念は存在しないといえる。タイトル戦はこれとは真逆であり、タイトル奪取のためには、特定の相手から必要な勝ち星をあげるため急所で勝てなくてはならない。)

という訳で、「レーティング+200点宣言」はかなり刺激的(な一方で、これを一笑に付することが全く出来ない所が藤井四段の真に恐ろしいところだが)な発言であり、またこれの意味する所は(棋士レーティングそれ自体は非公式な尺度でありながらも)プロ棋士の大半は直ちに理解するであろうことから、今後が大変楽しみと言わざるをえない。いよいよ漫画じみてきた。

 

ジョジョリオン 15

題材はチープ(悪い意味ではない)だが、面白かった気がする(理由は不明)。

どうでも良いが、カバー写真で遂に老化の兆しが見られ始めた気がするのは気のせいか。

 

ジョジョリオン 15 (ジャンプコミックス)

ジョジョリオン 15 (ジャンプコミックス)

 

 

2017.07.17

原理的には3連休であったが、数日前まで風邪だったのと、前後して何かと精神を削られる出来事があったりで、いまいち有意義に使えずだらだらしていた(言い訳)。

今日は猛暑の中外出して、先日のベイズ統計の復習に精を出し、妄想を逞しくするなど。漸くやる気が多少戻る。

夕方帰宅後、NHK-FMで「今日は一日”超絶テクニカル・ギタリスト”三昧」を流し聞いていた(こういう企画が成立するというのは有り難いことである)が、怒涛のピロピロ系(悪意はない)の後、最後(だけ)老人に優しくなってきたと思った矢先に、(80年代の)Frippおじさんが現れたにも関わらず"Discipline"ではなく"Frame by Frame"だったり、最後にAllan Holdsworthが来て(格と今年の訃報からラスト本命の気はしたが)愛に溢れたはがきが読まれた上に、リクエストが”The Sahara of Snow”とこれしかない、という展開に快哉を叫んだ直後に"The Things You See"が流れ出す、など、文化の溝というもの(単に素養がないとか好みが偏狭なだけ説もあるが)を感じさせられるものであった。

ポーの一族 春の夢

40年ぶりに新作が描かれる、という信じ難い事実にとどまらず、今まで全く描かれてこなかった複数の情報を含む衝撃的な展開(第二次世界大戦中という、これまでの物語における歴史の中の「内挿」のエピソードとして書かれたものとは思えない)と、兎に角驚きなしには読めない本書。

再開当初もそうだが、冷静に読めば流石にというか、拭えぬ違和感もなかったといえば嘘になる(魔法の解けたような雰囲気のエドガー、幼児退行の著しいアランなど個々のキャラクターのみならず、流水を恐れぬヴァンパネラとか「アカン」と口走る主要人物(こちらもヴァンパネラだが)など雰囲気の説得力を著しく欠くような情報が時折出てきて物語への集中をそがれる。こういったことは、恐ろしく一貫性を持って構築された雰囲気の下で展開される過去作にはなかった気がする)が、上述の意表を突く内容に加えて、ラストはこれも(ポーの一族のエピソードの一つとしては)あり得るかも、と思わせるような幕引きといい、何というか、やはり只者ではないという気持ちにさせられる(2017年に新作を連載する、と言う時点で並外れているのだが)。

次回作も予定されている、ということで注視する他ない。

 

 

2017.07.08

今週は忙しくないにも関わらず、色々気詰まりなこととかがあって、漸く昨日で一旦一段落することがわかっていたので、この日は息抜きの日、と決めていた。

池袋で古本市冷やかすなどしつつ、だらだらして午後から目白は志むらへ。

40分待ちではあったが、今年初のかき氷。桃が売り切れで夏みかんにするが旨し。いちごよりもかき氷の底の方に詰まった練乳部分がマッチして美味しい気がする。

その後は学習院へ行って今日の本題である押川先生の講演会(BKT転移とHaldane現象:2016年ノーベル物理学賞の奇妙な関係)へ。

http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/seminar/170708.html

 

昨年のノーベル物理学賞受賞者であるHaldaneによるHaldane gapの予想の話が、(最近まで一般的に信じられていたように)トポロジカル項とかのアイディアを素粒子物理由来で思いついたのではなく、TLLの臨界相と(Haldaneと同時に受賞した)BKT転移の関連の研究というきわめて物性物理した話(1D 量子XXZの厳密解を睨んで、なぜ相と臨界指数が2D古典系と一致しないのか、という所に着眼して、そこから1D 量子XXZでは一重渦の励起の禁止が生じており、最小励起が二重渦からになっている、と言う構造を発見すると言う話。この「禁止」が実は古典作用には含まれないトポロジカル項で説明される。)から思いついた、という初耳の話(個人的にはそれまで信じられていた経緯の話よりもむしろ、今回の経緯のほうが、非常にストレートかつ明らかに重要な着眼点によるもので、Haldaneに一層の恐怖を感じたというところだが。)。

また場の理論的な話の示唆を与えたのが実はたまたま訪れたPrincetonにいたWittenであった、とか、では一般的な理解であった、「Haldaneによってトポロジカル項に基づくギャップの理解がなされた」という話はどこから来たのか、というと実はAffleckによる詳細に書かれたレビューであった(原論文は目に触れる所に存在しなかったことも有り殆ど誰も見ていなかったが、こちらの影響で人口に膾炙した)、結果として、素粒子論の手法の物性での有効さが大きく認知され、その後の研究の潮流を形作った、などと、大変示唆に富む話(まさにIPMU Newsで紹介されるにふさわしい話ではないか)。学生の頃に論文を横目で見つつ、満足に読めなかった強力な面々の名前が続々と出てきて大変懐かしい気持ちにもなりつつ(読んだ気がするのはSchluzの1次元系の講義録ぐらいか)。

また、(本人に依るリジェクトされたプレプリントの紛失も相まって生じた)幻の論文を探し出して、その存在を確認する件なども含めて、脱線も大変面白く、押川先生の話の上手さにも舌を巻く感じ。

柏での談話会は平日でも有り流石に行きようがなかったので歯がゆいところであったが、今回こうして聞くことが出来て大変良かった。本当に有り難いことである。