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アクト・オブ・キリング

例によって「藤原帰一の映画愛」につられてGW中に見た。
インドネシアでは1965年の軍事力による政権交代とその際の共産主義者の大虐殺以後、大虐殺を行った側が「正義」となり、大虐殺について取り上げることは禁じられているが、その大虐殺において大きな役割を果たした「プレマン」(「自由な男」を意味する言葉であるが、実際はならず者)の筆頭格に対して、「自らの虐殺を映画にする」ことを薦め、プレマン側も(過去の栄光を取り戻すことを望んで)それに乗っかる格好で、映画撮影という形での当事者(加害者側)による虐殺の再現が行われる、という何ともぶっ飛んだ設定で話は進む。
もともとアメリカ映画のやくざに憧れのあるプレマンは、ノリノリで映画撮影に臨むが、その過程で当事者たちは自分たちの美化された記憶や自己正当化された理論と、実際の行為の生々しさやむごたらしさの乖離に直面し、半世紀を経て彼らは目を背けてきた行為の意味に向き合うことになる、という話。
今や齢80の好々爺が嬉々として首絞めのシーンを再現する所などをはじめとして、アイヒマン的な「悪の凡庸さ」という観点が想起されるわけだが、そこがメインだと仮定してしまうとこの映画自体がプレマンの陳腐な悪を断罪する、という形で蹴りを付けてしまっていることへの自己言及性が無いことが主張の弱さにつながってしまう気がしていて、むしろアンワル・コンゴという一人の(凡庸さという点で我々と何ら変わらぬ)人を対象とした、心理学的な実験とその結果の話(擬似的に過去をもう一度繰り返すという実験の中で、一度きりの革命のもたらす熱狂や、追憶の郷愁感は消え去り、行為の意味や封じ込めていたトラウマといった「重さ」が顕現する、というと、「存在の耐えられない軽さ」の冒頭まんまではないか)として見たほうが(個人的には)しっくり来る。
後はプレマンの撮る映画の、猛烈な悪趣味さ(黄土色のスーツとか蛍光色だくだくの衣装とか色彩感覚がやばい)で自己礼賛みたいな中身を展開する所の違和感っぷりが凄まじ過ぎるのだが、現実でもてんとう虫みたいなカラーリングの制服を着たパンチャシラ青年団が町を闊歩して、自己正当化の塊みたいなTVに出てたりと、もはや現実と虚構の境が怪しくなるところが圧倒的。
パンチ力、という意味では最近見た中で間違いなく屈指の映画と思う。