レヴィナス入門

超名著。非常に興味深い一方で鬼のように難解な内容(特に第二の主著「存在するとはべつのしかたで」の部分)なのだが、著者の真摯にかつ徹底的に咀嚼して言語化しようとする意志が最後まで読み進めさせてくれる。
このような思想が生まれてしまうという悲惨さと、思想が見せる「踏み躙りようのない弱さの、しかし強く兆す光」の前で、適切な言葉があるのかわからないが、読むことができて本当によかった。

レヴィナス入門 (ちくま新書)

レヴィナス入門 (ちくま新書)

以下は読みながらとった内容に関するメモ。
第一部「存在することから存在するものへ」を中心に)

ハイデガーの考え方
・「存在」と「存在者」の違い
日常においては我々は「存在者」を我々との関連によって認識している(世界内存在)。
ハンマーの例:ハンマーはそれが「目」によって認知されるより前に「手に差し出される」というそのものの有意義性によって世界に「存在」している。
しかし「存在者」としての在り方は「存在」そのものではない。
人間(「現存在」)も日常では「世界内存在」としてあるが、「死」という「この私」が引き受けるほかないものへの直面が不安を呼び、そのもとで「世界内存在」として「存在」が顕現する。


レヴィナス
・背景
大戦後「自分」が生き残ったのはなぜ?
「偶然」にすぎない→自己の喪失
何らかの意味がある→他の同胞が死んだ理由は?
「砕かれた世界」「私はもはやあなたとはむすびあえないようになったこと」
世界内で<私>が剥奪されながら、否応なしに「存在に曝される」こと。
イリヤの夜(これは<私>の存在しない世界に曝されることと捉えるべきか)。
そこからの回復としての「眠り」。眠りによる身体の空間的獲得。
存在とそこへの「遅延」から生じる疲労。時間的、空間的な<私>の獲得に伴うもの。
「現在」とは主体が存在を獲得した瞬間にほかならない。
現在において主体は存在を獲得するが、逆に言えば存在に主体は束縛される。


我々は「存在」として否応なく世界に存在させられている(イリヤの夜)。
ここから<私>を時間的、空間的に獲得しようという試みが必要なこと、そしてその試みが本質的に「遅延」を伴う(獲得は常に存在に遅れる)ことが「疲労」をもたらす。我々は主体が存在を獲得する瞬間である「現在」しか得ることが出来ない。逆に言えば存在に主体は束縛される。
この意味で我々は「未来」を得ることは出来ない。それは死、そして他者としてもたらされる。
※自殺とそれに至る意志はこの理論ではどう解釈されるのか?自殺という現象においても死そのものは未来としてしか得られないかもしれないが、自殺という概念をこの世界観は回収しきれているのか?


第二部 全体性と無限

背景
フッサールの世界観
まず<目>で捉えられる認知的な価値観があり、その上に<手>による「捉えられ方」が存在する。

ハイデガーの世界観
フッサールの世界観では、まずある「世界」とその中での「存在者」としての側面が議論されていない。存在者は道具的連環のもと「私」に対するかかわりとして姿を現す。

レヴィナスの世界観(第一の主著)
むしろ世界はまず(「始原的なもの」として)「あり」、我々はその中で、身体を持つものとして「糧」(ある所でそれ自体が目的となり、道具連関を断ち切る)を享受することで生きている。
一方で「始原的なもの」は永続的な享受を約束しない(未来としての)不安を孕んでいるが、我々はそれを「労働」によって我々の<同>なるものとして回収する。
この流れは「私」への「同」が可能なものに対してだが(したがって時間的には現在的なものである)、一方でそれが本質的に不可能なものとして「他者」がある。
他者は「世界」の外から来訪する。
※「糧」の概念では人が生きることのそれ自体の目的化(この妥当性については問わない)が前提か。

・欲求と欲望について
欲求は始原的なものからの享受を<同>化するという枠組みの中で完結する。そこでは欲求対象と得られるものは一致しており、最終的に満足が得られる。
しかし欲望はそうではない。欲望は<同>化の枠組みに回収できない「他者」を求めるものであり、したがって満たされることはない。(握手、愛撫の例)。

「他者」は世界内では対象化されるが、つかの間「裸形」を見せる。これが「他者」の「顔」である。

「他者」という問題(世界が自分のみならず複数の主観にとっての世界であるのはなぜか)の背景
フッサールの考え方
超越論的世界観:他者も自我が注入された「他我」としてある。

ハイデガーの考え方
単なる認識対象としてでなく、共同存在としてある。

レヴィナスの考え方
「他者」を「私」の認識に帰着させない。自我注入では、「私」と対等に主観を持ち得る「他者」とはかけ離れてしまう。
「他者」は(「私」の)世界の外から来訪する。そしてその(反応の)理解不可能性において、「他者」は「私」に<同>化されえないものとして現れる。
私はこうした汲みとり切れない「他者」を(対象化して)好きにする(たとえば殺すこと)ことはできない。
※この「汲み取りきれぬ」ものへのある種の「敬意」こそが「倫理」と呼ばれるべきものなのだろう。(変な意味ではなく)宗教的。
この「他者」に対して「私」は終わることのない応答の責務というを負う。

第三部 「存在するとはべつのしかたで」

デリダの批判
(1)レヴィナスの理論も「他者」の存在は前提としており、それを問うてはいない。
(2)「倫理的」な暴力の存在

・転換
「主体性とは<同>における<他>」
身体的面から:身体は糧を得る際にも傷つき、老いという形で変質していく。<私>も常に変容していくものとなる。
感受性の面から:統覚の前から感受性は存在し、それは「他者」と結びついている。
※つまり享受というものが自らの認識を超えた領域にまで拡張された時、これまですなわち<同>であったはずの主体性は<他>を含まざるを得なくなる、ということでいいか?
※愛撫の例も知覚され得ない<他>(そしてそれはまた本質的に変容していく存在である)との接触を求めるもどかしさ。既に通り過ぎ去ってしまった接触の「痕跡」としての「皮膚」そして「顔」、という認識でいいか?そして認識され得ない接触に由来する「責め」(認識した時には既に「他者」と相対しており、「無条件の諾」で答えていることに起因する)が生じる。