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2013.05.14-05.29

週末は研究室の先輩の結婚式だった。新郎新婦共に準備とかハードそうな一方でとても幸福そうだったし、久しぶりに研究室の他の先輩にも会えて重畳(指導教官得意の言い回しで一度使ってみたかった)であった。
しかし昨年指導教官宅のホームパーティに参加して、その時先輩が奥さん連れてきてたり助教の先生の小さいお子さんと指導教官が遊んでるの見たりした時も思ったことだが、心底それらを良い物だと確かに思っている(この言葉よりもう少し強い感じ。一つの真実があるというかなんというか)のにもかかわらず、良い絵を見るようにしかそれを見ていないというか、何かこうした良きものや幸福を対岸の出来事として見ている感がある。
まあこの先自分にこうしたものが去来するとは思えないので対岸のことに見えるのは当然だとも言える(完全に脱線だが、一般に、「良い物」を見た時にそれを自分でも作ってみたいと思うかどうか、というのは作り手になるかどうかという観点でいえば重要なことな気がする)。
しかし、冷静になってみるとこれまでもおそろしく多数の分岐が生成消滅していることを思えば(例えばサッカー選手になるという分岐はサッカーボール買ってもらってもすぐに遊ばなくなってしまった4,5歳の頃には閉ざされていただろうが、それを悔やんだり4,5歳の自分にもっとやっておけば、と言うことを想像することはない)、そう特別なことではない。
もし違いを感じるとすれば、それは社会的に目にする頻度などからその可能性(下手をするとそれの価値自体も)を高く見積もってしまっている、という誤解があると考えられる。つまりアンサンブル平均を考えて、自分にも起こりうる期待値を計算してしまっているのだが、当然ながら(自分の)人生はただ一度きりのものなのでこの仮定は(いつも)正しいとはいえない。
つまり何が言いたいのかというと、多数の可能性というものはそれを見ている時だけ存在する月のようなものに過ぎないのであって、もしそのうち何かを達成したとすれば、それはずっと見続けていたからということ。
もし容易く出来るように思えるものがあるとすれば、それは何らかの要因で、「見続ける」ことになったものなのではないか。

という訳で、まあさしあたって無理なく見続けていられるもののことを考えていこうと思う。