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-2012.12.09

先日研究室セミナーを終えた訳だが(例によって酷い出来だった)、修論へのモチベーションが上がらなさ過ぎる。
セミナーの出来云々以前に、やってる話とその結果に対してここしばらくポジティブな気持ちにはなれないでいて(他の人に共感されるような大きな目標や重要な問題提起といった、ある種の思想があるでもなく、自分が単に知らない事実だから調べてみた、という域を出ない。他の人は事実を知っていて阿呆らしくてまとめていないか、そもそも馬鹿馬鹿しくて調べる気も起きていないだけの気しかしない)、他の人が2年がかりの集大成として出すところの修論として、自分はこれを出すのか、という事実を考えるとかなり暗澹たる気分になる(じゃあセミナーなどで、他の人の時間を奪っておいてどうしてそんなしょうもない話をしたのか?ということになるのだが、ここに関しては自分はかなり面の皮が厚いスタンスで、義務とかあるいはまあお互い様でしょう、みたいな感じで考えている。これが良いかどうかは全く別だが)。
しかもろくでもない内容の修論に対して一刀両断されてまた来年、となるのならばまだしも、どうやら結果が文字通りnonzeroならば通る(正確には不問にするというべきなのか)らしいのも気が滅入る。まあこれに関しては、黙って出さなければよいだけの所なので、自分が根性なしというだけのことだけど。自律できないから誰かに首を切ってもらわなければ気がすまないのだ。
こうして愚図愚図していても全く状況は改善されず、むしろ時間を浪費した分だけ手詰まり度が上昇する(この、やりたくないことをやらずにいると死が近づく、という当然の事実にに気づいたのはごく最近だが)のみで、あと1ヶ月もしないうちに原稿が提出されるだろう(そしてその内容は今目の前にあるゴミからほとんど改善されないであろう)ことには驚きを禁じ得ない。
時間に圧迫されながらひーこら言いつつ、結局ぎりぎりで出来るとこまでやって、悔いは残らないと言ったら嘘になるけどしゃーない、みたいなのとかが一般に想像されうるこの時期の「修論やばい」状況と思われるが(自分もそうしたものは割と前に想像したことがあったが)こうした「緩慢な死」みたいのが実際に起こるものである、というのはなかなか教育的と言わざるをえない。