責任という虚構

ミルグラム実験で示される環境・外界の人間の意思決定への強い影響や、リベットの実験で示される、意思が行動に先立つという考えの誤りなどを皮切りに、自由意志とそれ故の自律性及び責任を持った個人という、近代的な概念がきわめて人工的なものであることを示す本。
ナチスの虐殺や死刑の執行に見られるような、システム化による役割の微細化と不可視化による個々人の行為の意味の希薄化と、それ故に現れる明白な責任の帰属を問うことが難しい状況や、意思決定に際して個人が積極的関与できないような外界からの影響が大きいという事実の中でどこまでを個人の意思と判断するのかという基準の曖昧さなどを挙げて、筆者は決して当然とはいえない自由意志−行動−責任という考え方は、因果関係と意思−行動の流れを同一視している(そしてそれ故に自由意志に拠ってもたらされた行動に対して人は責任をもつという考え)ことに起因していると指摘し、むしろ(社会的な要請等から)行動から意思を逆算してみせる必要に迫られた末の産物に過ぎないと喝破する。
更に責任は自由意志の産物としてしばしば語られるにもかかわらず、実際には被責任者は(透明な主体ではなく)特定の属性を代表するシンボルとして社会の秩序形成に利用されていると筆者は指摘する。
このように責任とは社会的な産物(筆者の言葉を借りれば「虚構」)に過ぎないが、このようなものが要請される原因としては、社会秩序の安定には単純な社会契約論は暴力しか手段を持ち得ず、したがってそれを避けるならば、社会契約論の枠組みの<外部>にあるような虚構を導入する必要が有る、というのが虚構の発生原因であると筆者は主張する。
全体通じて面白く読めたが、特に最終章はしばしば謎となる「人は自由を求めながらなぜ進んで隷属するのか」という問題に対する考え方として興味深い(「自由な個人モデル」で考えをスタートするのが妥当でないのでないか、という話かと思った)。

責任という虚構

責任という虚構