タタール人の砂漠

いわゆる待ちぼうけ小説。
あらすじとしては国境付近の砦(しかしその軍事的重要性は過去のものとなってしまっている)に配属された軍人である主人公ドローゴが、最初のうちは別の場所への転属を望んでいながらも、いつか砂漠からやってくるであろう異国軍との栄えある戦いを希望に砦に居残るうちに、時は過ぎ去り、きわめて不本意な形で最期を迎えることとなるという話。
若さに裏打ちされた主人公の時間の浪費感と自分の人生にいずれ何か特別な出来事がおこるはずだ、というある種の慢心の書き方が絶妙なために、読んでいるとかなり背筋が寒くなるのだが、一方でこうした、「動かなかったために何も得られずに終わった」、という捉え方は一面的な気がしないでもない。
というのはいつ起こるともしれぬ戦いの名誉ということに関して言えば、「動く」ことはそれを保証しないから。「動く」ことで保証されるのは動いたという事実とそれに伴う「疲労」だけである。その意味でドローゴの問題としては、望みとそれを得る手段というものが主体的につなげていけないという点(そして、そのために街へ戻って平穏な暮らしを手に入れるという、先の望みとはベクトルが異なる選択肢であるとか、実際の所名誉の死とは言い難いアングスティーナの死とかに心動かされる)が重要なのであり、それを単純に「動かなかったために、残念な結果に終わった」という解釈をしてしまうのは、問題の性質を脇に「動く」という行為を過度に評価している(そしてそれは結果如何によらず得られる「疲労」を目的の一部とすることへもつながっていくだろう)と言わざるをえない。
つまり、自分でどうこうなる範囲を超えているドローゴの望みに対しては、それが得られるかどうかは動く/動かないの問題とは直結するとはいえない、というのがまずあって、そうした時に問題になってくるのが、動こうが動かまいがいずれにせよ生じる時間の消費(と最終的な死)、というものをどう捉えていくか、ということ。この追求が、動くという行為(と疲労)自体によって免除されると思ってしまうのは嘘だろう、とか。

「(自分のみでどうこうならないものを)待つ」、という題材は個人的に興味があって、面白く読めた。

タタール人の砂漠 (岩波文庫)

タタール人の砂漠 (岩波文庫)