美学への招待

特に西洋近代において始まった「美」ととその捉え方について、それがどのようなものであり、また本来の範囲からどう拡がってきたについて身近な例を交えつつ解説した本。全体的にどこでどの話をするのか、それがどういう位置づけなのかという点が極めて明快な話の組立てになっていて非常に分かりやすい。

まず1章では西洋の近代における美学の誕生についてのあらましについて述べられており、神―教会という枠から離れての指針として、人に宿る創造性とそれを理解できる能力というものが重視され、それを扱う学問としての感性学から美学が始まるという話。つまり、ある種の拠り所であり、かつ線引きの手段であった(美、というものが存在してそれを体験判断する適切な方法がある、これを行うのが「正しい」という前提のもと)訳だけど、徐々に概念に基づいた(感性と対局の意味での)知性による「解釈学」という観点により従来の「感性による普遍的体験」の解体が進むと共に藝術の概念自体の多様化が進んできている、といった話がなされる。

その後は「美」の範囲とそれを形作るもの(そしてそれらは我々の文化や感覚の暗黙の了解になっている)が幾つかの例を題材にあげられる。
2章では「センス」とは何ぞや、という、身体的な「感覚」に対するものとしての非身体的なもの、特に何らかの理由(幾つかの要素が複雑に絡み合っているなど)で簡単なカテゴライズができないものこそが「センス」で、だからこそ才能や創造性、藝術といった文脈で用いられるという話。
3章では「ミュージアム」という語の志向する所から始まって、「タイトル付け」という行為が作品の受け取られ方を規定するということや、人形が藝術とみなされなかった理由として身体的に触れ合う対象であったことをあげ、新体制から切り離されることが藝術の重要な要素であったことが再び取り上げられる。そして、藝術からより拡がりをもった対象を含む概念としての「アート」が現れる。
この辺は例の持ってきかたといい、本質を抉る説明といいかなり筆者のやり方が成功していて上手いと思う。

4章では「作品の複製」をテーマに、オリジナルの作品が最早その体験において優位性を持ち得ないこと、その結果として作品の体験のされ方(ここでの体験のされ方とはその体験がなされる状況や「場」などを含んだもの)の多様化や個人化が進むなかでの藝術の公共性回復の可能性について(パブリックアートを一つの方向性として)。
ここは本全体の中でも少し変わった位置づけかな、とも思うけどきわめて重要かつ面白いテーマと感じた。個人的にもかなりcrucialな問題だけどまだ納得は得られていない。

ここからは藝術の範囲の拡がりとそれをどう美学として捉えるべきか、といった内容の話へ。
5章ではaetheticという言葉の多義性から感性的なものへ藝術が広がっていくこと。さらに6章では従来の藝術が体験の仕方を規定するものであったことから、身体的に感じるものへと拡張されることが新たな見方をもたらすこと、その延長として7章では「しなやかな応答」への回帰の重要性が語られる。しかし、「デルモンテ・ボックス」のような、いわば哲学的な問題提起型の作品に対してこれらの見方は無力であり、そこで求められるのはこれまでの藝術の歴史への理解やそれに対する思考、問題意識である。
8章では何が藝術をそう定めるのか?という問いに対して「アートワールド」と呼ばれる専門家集団が決定を行うのだ、というダントーの案が紹介される。そして更に、「永遠の藝術」と「現代的藝術」の二つにおいて前者が極度にもてはやされる現代の様相がかなりの異例であること、そしてその起源が藝術において作り手と観衆双方から「新しさ」への強い要求があったこと、そしてそれに加え(背後に作者という一貫性を持つはずの)藝術の理解への欲求から古典への興味が強まる傾向が増して入ったこと、そしてそれ自体が目的化や固定観念化を招いたことが挙げられる。
8章はこの本の(おそらく)ハイライトでとても興味深く、かつ普遍的な(例えばミステリや物理にも全く同じ問題が存在する気がする)内容。
ではこれからの美学は何を目指すべきか、ということについて筆者は9章でみずみずしい感情としての「美」というものに目を向け、人間を超えた自然の美を語るべきだ(デカルトに始まる人間中心主義からの開放、的な)、と総括するのだが、まあ率直に言えばこの結論には唐突なものを感じるというか、なんか打ち切りの漫画に似たものを感じざるを得ない。ただ8章の問に対して現時点で自分が納得行く案を持っているわけではないので何とも言いがたいが。

まあ最終章はかなりいまいちな気がするがそこまでの運びはとても面白く、全体としては良い本だったと思う。

美学への招待 (中公新書)

美学への招待 (中公新書)