2019.05.18

昨日は怒りに任せて遅くまで起きていたので、起きるのが阿呆のように遅くなる。

外出して順序統計に関する文献を調べるなど。莫大な既往研究(しかもまともな数学臭が強い)に押しつぶされる気分である。

スタバでアンケート回答と飲み物が交換になる券(レシート)を引き当てる。どの程度の確率なのかやや気になる所。

夜はAmazon Primeでのゴジラ見放題の存在を知り、平成ゴジラの流し見をしていた。生まれて最初に見に行ったのがvsキングギドラだったのだが、その後は飛び飛びにしか見ておらず、今回vsメカゴジラとか始めてみたが、今となっては適時を逃したという気持ちだけが残るものだった。スターレス高嶋が出てきたときには思わず笑ってしまった。一方で、劇場にもリアルタイムで見に行ったvsデストロイアは普通に面白かった。しかし高嶋政宏にせよ、博士役の辰巳琢郎にせよ、出てくる人がいずれも時代がかっていて何だか妙な気分になってしまう。

 

2019.05.17

ひょんなことから出身の専攻のD論が読み放題なことを発見してしまい、いろいろ眺めるが、どれも当然ながら大変立派なものでかなり憂鬱な気分になる。

夕方はセミナー。ここでも気分が下がることに。

終了後帰宅するが、メール一本のために戻る羽目になる。こういったことをしているとこれぞ労働、という気持ちになってくるのは頭がおかしいせいだろうか。

名人戦は予想外の4連勝で豊島名人誕生。しかし、横綱の如き堂々とした佐藤将棋に魅力を感じていた自分としては、この名人戦を(自分が将棋を始めた年の名人戦であった)佐藤ー丸山戦と重ねてしまっていたり。後はやはり、(新名人戴冠のタイミングにもかかわらず申し訳ないが)4連覇が成らなかった、という事実が藤井二十世名人誕生の確率を着実に上げているな、とか思ってしまった。

名人・竜王経験者というくくりで言えば、丸山-渡辺-豊島という路線が個人的には、一手の「指し手」で印象を強く残すような魅せる系統の将棋ではなく、気がつくと勝っている系、として(渡辺二冠はブログや取材を巧みに活用して情報を自ら発信しているので、その印象が相対的に薄れているという側面があると思うが)個人的には認識している。

羽生・佐藤・森内は言わずもがな、丸山にせよ成香冠は言うに及ばず、名人時の谷川戦での四間飛車の屠り方とかいずれも、その棋風の強い特徴を体現するような「この一手」が数こそ異なれど思いつくわけだが、渡辺・豊島両名、名勝負・名場面的なものこそあれど、意外とそういったものは指摘しづらいような気がしている。特に豊島将棋の「これぞ」という指し手が正直直ちに思い浮かばない。というわけで、将棋世界の付録か何かで、「豊島の一手」的な特集・小冊子を強く希望。

 

 

 

2019.05.15

(連続変数の)量子推定の勉強をしたいと思い立つ。

Molmerの学生であった人のD論が猿でも分かりそうに書いてあるように見えるのでこれを読もうかと。

連休で(お試し期間として)申し込んでしまったNetflixを活用すべく、食事中に「バキ」を見ている。記憶が朧げのせいもあって、(特に柳龍光との初対決ぐらいまでの前半部分は)割合楽しんで見れる。

2019.05.12

特になし。しかし日記を一週間まとめて書くとそれだけで馬鹿にならない時間が過ぎ去るのは驚きである。

ノートを書き直すなど。後は手遊びにVariational Bayesのコードを書いた。

コードを書くという行為が、ぼんやり考え事をするであるとか数式を追うとかに比べて好きではないので、どうしても初動に躊躇いが発生してしまう。

しかも理論の検証なので(予想し得ない面白い現象を求める実験ではないので)、その割にできても、maxでまあ予想通りですね、よかったよかったという感じの結果しか得られない(要は検算であり、根本的に予想し得ない深い驚きとかがない)。妥当そうな結果になっても喜びとかはなく、見た目バグがないことへの安心感のほうが強い。

要は(算数を通じて結果が得られており、本来数式の流れをフォローすれば正しいか否かがわかるものであるという意味で既知であると言える結果をあえて)電卓で検算するために、コーディングという行為を通じてバグが生じる可能性を発生させて、予想した答えが出てきたら、「バグがない」と安堵している訳である。この、「安心感のマッチポンプ」をどう見るべきか。(こういうと悪意がある表現だが、検算できてよかったよかった、という考え方も当然あるとは思われる)

類似した問題でいえば、一般的な工学シミュレーションも好きではない。未知の驚きがないので。(流石にこれだと表現が乱暴すぎるのでもう少し補足すると、結局シミュレーションのモチベーションとして、挙動がぱっと予想できないものとか、実測で観測できない内部現象などの把握を求めてやるわけだが、工学の局面では、得られた結果について定性的に違和感がないか、「解釈」がつけられるか(つまり既知の概念に照らして即腹落ちできるレベルの結果かどうか)という観点で結果を「眺めて」いるように見え、新しい現象やその原因を追求して理解する、という問題意識が相対的に希薄に見える。結果として、一連行為を通じて人類が「賢く」ならないので楽しくないし、成長をしないことに伴う無駄も多い)

頭が固すぎる、と言われればそれまでだが学部の頃の「刷り込み」の効果は思いの外大きかったようで、異分野のドグマ(これ自体悪意のある表現かもだが)に対して、スムーズに受容できることが思いの外多くない。情報科学は言わずもがなだし、統計学も結局最後アプリケーションに落とす、という部分に重きがあるように見えるところに漠然とした違和感がある。そんなに「手法」や実データ適用の「実績」が大事なのだろうか?

しかし最近の流行りのおかげで、本質的に確率的だったり挙動が複雑すぎるためにブラックボックスにさえ見える系が増えれば、分からない系の挙動を外から観測できるものを使って理論的に探る、という「物理」的行動原理ももっと自然なものとなってくるのでないか、という淡い期待(大変傲慢かつ野蛮な思想で申し訳ないが)。まあ御大層な事ばかりいっても、自分がやっているのはその更に手前で見た目シンプルな問題なのだが。

全然上とは関係ないが、PythonのDynamic mode decompositionのライブラリを発見するなど。この現代社会においては、本当に何でもあるのだな、とつくづく。