真理の探求

年末に読んで以来、ずっと書かねば、と思いつつバタバタしたり自分の中ですっきり腑に落ち切るまでに時間を要したりで、こんな時期になってしまった。

仏教と宇宙物理学の対話」という副題からして、著者名の記載がなければ妖怪アンテナが立ちそうな題材にすら見えるのだが、いざ読み始めると、そのようなキナ臭いものでは全くないのは無論のこと、想像を遥かに上回る興味深い内容であった。

この衝撃への寄与として最も大きいのは、やはり佐々木先生による「大乗」以前の仏教の解説。

「宗教」といった時に(少なくとも素人の自分は)どうしても一神教の、予め与えられた「神」と「教条」があって、「良く生きること」が「来生の幸福」と直結する、といったスタイルが想起され、それに馴染めず距離を感じる、と言う所があるわけだが、ここで紹介される(「大乗」以前の)仏教は、(他で言う)「神」もなく、ある「法則」に従って運動している「世界」があって、その中で(真理を知らずんば一切皆苦の)自分が生きている、という非常に馴染みやすい(ある意味「物理的」な)世界観。

また、この世の法則から自己の主観によって遠ざけられており、理解を深めるために修行を行う(修行組織を「サンガ」という、というのを見てサッカーチームの名称の語源に思い至った)、「アビダルマ」という体系による統一的な理解を図る、といったスタンスも(道具立てこそ異なれど)非常にある意味で類似しているのではないか、ということで、(単純化が施されているのかも知らんが)正直こうした「宗教」があることに驚きを禁じ得ない。

更にこれに加えて、こうした(本来の)仏教がどのようにして、日本に伝わる際によくある「仏教」(大乗仏教)へと変化したのか、なぜ日本の仏教はそれと違い、また中国の大乗仏教とどのような点で異なるのか、などの経緯についても解説され、この辺りは猛烈に面白い。

本書は、全体の構成としては、物理側と仏教側がそれぞれ世界に対する基本的な捉え方を解説して、お互いに質問・対談し合うスタイルなのだが、この辺りでは大栗先生の質問が本質的な所を突きまくる異常な鋭さで、実に刺激的。

他の所での自由意志の件とかは、まあ出るだろうな、という感じで回答も想定の枠内なのだが、それには留まらず、日本にサンガ抜きの大乗仏教が入ってきた理由を問う件では、(明らかに本質的過ぎる質問なので)文字通り読んだ瞬間に寒気に襲われた(未読の人にはぜひ読んでほしい部分ではある)。読んでいるときには自分は全く思い至らず、こういった疑問がリアルタイムで出るところに恐怖を感じさせられる。

また、本書裏表紙にも出てくる、(物理と仏教で示唆される)「人生の目的は予め与えられているものではなく、そもそも生きることに意味はない」という結論についても、その上でどのように個人としてやっていく目的を見出すか、という話に展開していくのだが、ここで非常に面白いのが、ここまでは『(意外に)「科学」に近い「仏教」』、というスタンスの話だったのだが、ここではむしろ『(意外に)「宗教」に近い「科学」』というこれまでと逆の側面が現れているように見えるところ。

どういうことかというと、佐々木先生は「仏教は他の宗教と違って生きる意味を与えない」ので、「自分だけの幸福のあり方を自分で見つけていくことが大事」としており、(ここまでの本来の仏教の教えに基づいた)きわめてストイックな、個人レベルでの「良き生」の追求を行うとしている。

一方で、大栗先生は「研究を通じて新しい発見をした瞬間には、美しい音楽を鑑賞したり、美味しいものを食べたりするときとは質的に違う喜びがあるように思います」とし、「自らの力でこれまで人類が知らなかった何かを見出したということに、深い勝ちがあるように感じられる」、「与えられたものを享受するだけでなく、自分の力で世界に働きかけ、何かを見出したり作り上げたりすることには、価値がある」としている。

一見するとこれも佐々木先生の挙げるスタイル同様の「真理」ー「(研究者)個人」の関係にも見えるが、(おそらく)重要なのは(研究の前提条件としては当たり前の)「これまで人類が知らなかった」という点であり、つまりここでは科学における「良き生」の追求の仕方として、科学に関わる人々(現代においては全人類に近い)の集合があり、そこに対してどのように寄与するか、ということが「良き生」(の前提)を特徴づけている。

すなわち、今や科学における「良き生」はコミュニティの上に特徴づけられる(いかにも「危険」な表現なので念のため補足しておくと、科学における事実関係がコミュニティによってオーソライズされる(相対的なもの)、と言っているわけでは無論ない。事実関係は事実関係として独立に、先までの表現に倣えば「真理」−「探求者としての個人(「人類」とすべきか)」の関係として存在するが、それに対して良いものか否か(平たく言えば、人類にとって既知ならば「勉強」で、そうでなければ「研究成果」となる)はコミュニティ(人類)の知的水準が決めるということ)訳で、これは「教条(といっても既知のものを超えよ、という点に尽きるかと思うが)」に従って「良き生」を求める、という「宗教」的な営みにある種近いのではないか?

これは(多分)必ずしも自明なものではなく、おそらく古くは、情報伝達の限定などから個人のレベルと(ある領域での)コミュニティの「知的水準」がイコールの所が少なからずあり、(本書で紹介された本来の仏教のような)個人レベルでの探求、というのが科学そのものの発展となりうる、という可能性もあり得たのだろうが、アカデミーのようなものの誕生であるとか、その後の相互作用の頻度・伝達速度の加速の中で、科学の発展とともに知的水準が集合そのものの中で定義されるようになって、「宗教」化されてきたということなのだろう(大概のものの発展の歴史とパラレルなきわめて当然のことなのかもしれないが、上手く個人とコミュニティの発展および興味のベクトルを合わせることなくんば「寄与」とはなり難いということなので、今や非人的な真理とまっさらな個人として向かい合うといった形の「個人の救い」としての「科学」は過去の遺物となりつつあるとも言える)。

とまれ、一見相反するような要素を接触させて、そこから興味深いものが生まれる、という形態は(無論両者が本物だから可能になることだが)個人的な志向としても非常に魅力的な分野であり、「科学」と「宗教」という(特に難しそうな)領域でこれ程面白いものが見られたのは非常に良い体験であった。

 

真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話 (幻冬舎新書)

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