最後の秘境 東京藝大

年末に実家で読む。キャッチーな宣伝文句から当初本屋で見た時は軽視していたが、某所での「みすず」への推薦文を見て読むことに。

内容としては、妻が芸大生だが自身は芸術に関しての専門家ではない筆者が、芸大の学生へ行ったインタビューをメインにして、どのようなことを普段しているのか、という一端を紹介するといったもの。表紙や売り文句とはやや異なり、取り上げられる例には一部目をむくものもあれど、基本的には色々な学科の人がどういったことをしているのかを紹介してもらう、というごく普通のものという印象。大学紹介のムック本などに載っている、「学科紹介」がイメージとしては非常に近い。

ただ、非常に多岐に渡る分野を対象として取り上げたということもあって、内容としては深くに立ち入るものではない(ど素人の自分は知らないことだらけで面白く読んだが)。とはいえ、本の大半を占める学生によるインタビューへの回答は、自身の専門への矜持、向き合い方、将来などに関しての思いが垣間見えるものとなっている。

 

最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常

最後の秘境 東京藝大:天才たちのカオスな日常

 

 

 

という訳で(比較的)面白く読んだのだが、以下のサイトを見てまた唸ることに。

 

moro-oka.hatenablog.com

www.huffingtonpost.jp

上のHuffington Postの記事執筆に際して元のブログから加筆修正が成されたということで、より「職業としての芸術」と直結した所(今回の話で言えば、「藝大生」を題材とした本でありながら、「藝大生の作品」と結びついていかない点への問題視)の部分が強く押し出されたような印象を受けた。

確かにその辺りの内容(本文で言うと、最終2パラグラフあたり)についてはご指摘の通り、という感じ。特に各人の「選択」について外野がどうこう言えるものではない、といった所については首肯しかない。ので、以下では、この本において、インタビュイーの「行方」(それは「作品」と直結するものかと思うが)がどのように取り上げられ得たか、というところについて。

今回本を読んでいて実に歯がゆい所としてあったのが、出て来る人たちの制作物やその制作現場などの図が全く出てこない所で、これについては掲載した方が本としては明らかに良かったと思う(文章のみで伝えることへの強いこだわりが筆者にあったなら別だが。後はカラー図版載せると印刷代が全然変わってきて、今の価格では提供が難しいとかの現実的な問題だろうか)。

音楽についても特設サイトを準備するとかして一端でも聴けるようにするとかできなかったのだろうか、というのはある(ただ、プロとして活動している人の場合だと、載せるときに処置が面倒だったりするのだろうか。その辺の常識がなくて良くわからないが、面倒だから、ということで一切載せず、と言う選択だったのだろうか)。

一方で(この辺りの常識がないのだが)、どこまでを「プロ」(ここではカジュアルに、活動の結果としてお金をもらっている人、程度の意味)とみなすか、と言う所とも関係して来るのかもしれんという気がした。

というのは(この領域での常識がないので素人の印象でしかないが)、今回のインタビュー依頼に対しての「契約」の外なら、ある意味で本の中で作品に触れてもらえるか(そうした書き方がされるか)どうか、というのは作品の製作者側が口を出せる領域の外というか、どのような取り上げられ方をするか、そこは書き手の自由という気がしないでもない。作者側から見ればそこも含めて書き手の興味を引けるかが重要と言うか。

なので、完全に(「プロ」的な)個人に対するインタビューの集積と見れば、どのような取り上げられ方をするか(作品と結びつけて、市場につながるような宣伝までしてもらえるか)、ということについて(作者側から)言えることは特にないと思うのだが(勿論根も葉もない事を言われたり、不当な貶めがあったりすれば別だが)、今回「大学」に所属する「学生」を集団的に取り上げている、という見方をするならば、確かにどのような作品が制作され、その結果として生徒がどのようなキャリアパスを描いて、どのような形で社会に接続して云々という話があった方が好ましい、というのは(もう少し広い観点から)まあ確かに、と言う感じ。そこまで行くと、このインタビューが、どういった立場で行われているのか、とかにもよるけれど(大学公認みたいな形でやっているのかは不明だし。何となくもう少しゆるそうだが)。

なお、Huffinton Postに投稿された記事の前半に関しては、非常に率直に言えば(こうした問題がままあるのは認識しているが、それでもなお)書かれている問題意識が、本当に問題なのかよくわからないという所。

(以下を自分が書くのは笑止千万だが)少なくとも科学とかでは、何かアイディアを提出してきた人間が「同じ世界の人間」だろうが(たとえば考えに没頭して服を着ることもままならぬような)「異世界」の住人だろうが何だろうが、出てきたものが勝負(のはず。原理的には)。

出てきたものとその作成者を切り離して考えられる(ひどい例だが、たとえどれ程に度し難い相手であろうと、到底理解がなし得ると思えぬ者からであろうと、出された結果は否応なく「正しい」ことは大いにある)というのは、(ある意味で)非常に美しい事のような気がするので、芸術がその作品の理解において「作成者の(同時代性、同じ人間であることの)理解」が大もとに必要というのであれば、(やはりと言うべきか)かなり違うものなのだなあ、という感じ。

作品が「生きる」ために「理解してくれる人」が必要ということを前提にするならば、(時間軸的に現在のみを切り出すでなく)将来的な候補者の期待値を増やすというのは一貫した自然な考え方の気がするので、そうしたことも含めると、いかに恒常的に作品へのアクセスを可能にするか、というところの担保が大事になったりするのかも、とか思った(「今」仕事として成立するために、と言う話からは遠ざかるのかもしれないが)。