現代という時代の気質

「波止場日記」のアフォリズム的な文章を読んだ時は、成る程と思わされた気がするのだが、あまり長い文章を書くのとか、歴史をちゃんと調べてそれに基づいて何かを主張する(主張が先立つのではなく)、といったことには向いていないということなのだろうか。
要は、「プロ」の作法でやる、ということには相応の訓練が必要である、ということの好例なのかもしれない(これは、いわゆる「知識人」のように高等教育を受けることのなかったホッファーの文章は「プロ」の作法に従ったやり方でないので駄目、という意味ではなく、特定の流儀に従って何かを行うにはそれなりに訓練や「慣れ」が必要になるのである、というごく当然の主張と、この本が、(一定の長さを持つ)文章により著者の思想を表明する、という(従来の知識人によるもの同様の)形態を取ったために、従来の流儀のもとで読まれるような形となり、その結果却って拙さが見えるようなものとなっているように思える、ということ)。

現代という時代の気質 (ちくま学芸文庫)

現代という時代の気質 (ちくま学芸文庫)