波止場日記

沖仲仕の哲学者」とも呼ばれる筆者が日記の形で約1年にわたって記した、日々の労働の中での思考の過程。
淡々とした生活とその中での思考の断片の描写を通じて、大衆に対する知的生産力・創造性への信頼と、いわゆる「知識人」への強い反感という筆者の通奏低音的なスタンスが、アジアやアフリカでの革命運動の活発化といった当時の様相を受け、さらに深化して、「変化」についてという大テーマのもと、環境の急激な変化における人間の応答と、革命家と知識人の共犯関係にまで及ぶ一連の形態(そして抽出されたものは、決して古びていない)が抽出されてくるダイナミックな過程が見れて大変興味深い。
以下、いくつか上述の部分に関するところで印象深い部分(のごく一部)の抜き書き。きわめて本質的と感じる。

われわれはただちにプライドの化学について出来るだけのことを知るべきである。プライドー国家、人権、宗教、党、指導者に関する―は個人の自尊心の代用である。(中略)
プライドに対する現今の激しい渇望は、人々(特に教育のある人々)の自尊心の維持がものすごく困難になっていることを示している。

自由への切望はあらゆる人間的現象の中で最も人間的なものである。自由とは、人間をものに変えてしまうような、つまり人間に物質の受動性と予測可能性を押し付けるような力や環境からの自由を意味する。このテストにかけるならば、絶対的な権力は人間の独自性に最も反する現象である。絶対的な権力は人々を順応性のある粘土に変えたがるからである。
自由に適さない人々―自由であっても大したことの出来ぬ人々―は権力を渇望するということが重要である。(中略)
自由は、人間のそして個人の独自性を発揮する機会を与える。絶対的な権力も独自性を授けることができる。絶対的な権力を持つことは、周囲の人々全てをあやつり人形、ロボット、玩具、あるいは外見だけ人間の動物にする力を持つことである。絶対的な権力は、他人を非人間化することにおいて独自性を達成する。

根底的変化に必要な人間の可塑性には、ある種の非人間化が絡まっている。人間が可塑的になるには、もの―順応性のある粘土―にならねばならない。したがって、根底的変化は、発展的飛躍の場合でさえ、原始化、つまり自然への回帰をもたらす。そして、絶対的な権力は人々をものに変えてしまいがちであるから、絶対的な暴君がいかに変化に適した者であるかが分かる。

自分に他人を教え導く能力と権利があるという確信が持てないのは、私が非知識人であるしるしである。これが重要なポイントである。というのは、知識人はなかんずく教師であり、無知な大衆に何をなすべきか教えることを自己の神授の権利と考えるからである。この教師コンプレックスを無視すると、知識人の中心的特徴を無視することになり、その熱望と不平をとくカギを見落とすことになる。教えたいという熱情が現代の革命運動交流の決定的な要因である。

豚のような大衆は約束の地に入るのに適さない、とモーゼからレーニンまでの知識人は確信していた。一つもしくはそれ以上の世代が犠牲にされねばならなかった。そして新しい世界は教師=支配者の監視の下で育てられた新世代のみで形成されたのである。

全ての根底的変化にはモーゼのパターンに似た何かがある。モーゼは奴隷となっているヘブライ民族を自由にしたかった。彼の任務は奴隷を集めて自由であると告げるだけだったと思えるかもしれない。しかし、モーゼはよくわきまえていた。奴隷から自由人への変質は自由人から奴隷への変質よりも困難で苦しいと知っていた。奴隷の身分から自由への変化には他の多くの根底的変化が必要である。まず第一に、一つの国から別の国への飛躍―移住。したがって出エジプト。更に重要なのは解放奴隷に新たな自己意識と再誕意識を与えることであった。(中略)大団円は何であったか。モーゼは、いかなる移住も、いかなるドラマも、いかなるスペクタクルも、いかなる神話も、いかなる奇跡も、ど英を自由人に変え得ないことを発見した。それは出来ない相談である。そこで彼は奴隷たちを砂漠に連れ戻し、奴隷の世代が死に絶え、新しい世代―砂漠で生まれ育った―が約束の地に入る準備ができるまで四十年間待った。
すべての革命指導者は熱烈に変化を説くけれども人々が変わり得ないことを知っている。モーゼと違って彼には手頃な砂漠もなければ四十年も待つほどの忍耐もない。そこで成人世代を追放するためのパージとテロ。