魔法使いの弟子

学問、政治、芸術といった手段がいずれも人間を個別要素に分解し、その結果「運命の成就」という根本的な欲求が満たされることなく、そうとは知らず隷属的に生きるという「第一級の病」に侵された人間が「総合的な」実存を取り戻すには、という本。装丁がお洒落。
著者の主張としては(超雑に言えば)、個別要素や単一的なイデオロギーへの人間の分解・単純化や、現実と結びつかないようなフィクションというのは人をして実存から遠ざからしめるものであると。
具体的に挙げられているのは、たとえば学問は、微に入り細を穿つ様相を見せており、それ自身では総体に至らないだけでなく、人間が自らをなげうってその成就に貢献することを求めるようなものである、「行動」はしばしば尊ばれるが、実際は現実世界に合わせて矮小化された理想に基づくものであり、行動それ自身のためのものにすぎない、とか。すなわち、ある種の(自己の実現のための手段とみなされているものの)自己目的化したものを批判しているように見える。また、(芸術などの)「フィクション」は、現実として現れない、一切が虚偽であるものであるからして、人を実存へ至らせるものではないとされている。
では何が必要なのかというと、筆者いわく、どうやら(欲望と密接に結びついており、かつ意図せずに外界から「偶然」与えられる)ある種のイメージ、そしてそれが「受肉」し、互いが互いを再発見する瞬間を与えるもの(筆者は恋人を例に出し、恋愛の端緒となる幻想的なイメージとの出会いから、心の通じ合いを伴った「恋人たちの真の世界」への至りを取り上げる)ということらしく、これを与えるものは、意図の企みを排除した「神話」とそれによる「共同体」の創発ということらしい。
どうやら、「フィクション」と「神話」の違いもここに集約されるようで、他者の存在というかある種の偶然性によるイメージとの出会い、それを媒とした他者との一体感、といった者の存在のよう(少なくともこの本の中ではフィクションは個人が運命を成就するために理想として描き出した(かなり個人的な)物語として書かれているように見える)。
まあこう言われると、「そういう考え方もあるかも」ぐらいの感想しかなかなか持てないのだが(本としても、急所を抉るような表現は多いが、明快な展開とかでは必ずしもないように思う)、個人的には、何をもってこの「偶然性」(あるいは「他者」)を受け入れていくか、という指導原理のあたりが気にかかる(ナイーブには、本文では「実存探求」という大目的のため、ぐらいのことしか言っていないように見える)。

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