断片的なものの社会学

社会学の研究を行う筆者がこれまでに出会った、通常の分析や解釈と言った過程から抜け出てしまうような人々の語り(筆者はそれを断片的と読んでいる)を集めた本。
半分程度はWebで連載されたもの(以下のURLで見れる)なのだが、半年ほど前に最初に目にした「笑いと自由」の件が素晴らしかったのでぜひ読みたいと思っていた。
http://asahi2nd.blogspot.jp/search/label/%E5%B2%B8%E6%94%BF%E5%BD%A6%E3%80%8C%E6%96%AD%E7%89%87%E7%9A%84%E3%81%AA%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6%E3%80%8D
今回本を読んでみて、非常に繊細な部分と穏やかな部分、それとある種突き放したような部分の混在した独特の語り口と、ともすれば別段意識することもなく過ぎ去ってしまってもおかしくないような人々の(しばしば少数派が味わうアイデンティティの面での困難や悲哀、人の生の矮小さ、それと時にはある種の可笑しみを伴うような)エピソードが相まって、話の筋としてはあちらへ行きこちらへ行き、というスタイルであるにもかかわらず、強い印象を残すものとなっていることに改めて気づく。異質な個の間に厳然としてある壁とそれによる絶望的な相互理解の困難(筆者はしばしば率直に「途方に暮れる」)を書きながら、それが(偶然生じた身体的な接触、あるいは奇跡のような瞬間として発生したアウティングなどの形で)超えられうる可能性について描かれる様にはかなり揺さぶられるものがある。
ただ(エッセイ的な文章ということもあり、話をわかりやすくするためにある程度意識的にやっている部分もありそうなので微妙だが)一方で、相互理解にまつわる問題や困難を個別具体的な個人から切り離した(特定の)アイデンティティの観点に帰着させてのみ考えるのは、やや危険なきらいもあるとは感じた。たとえば「手のひらのスイッチ」に出てくる、

私たちが、ある男性と女性が結婚したという、そのことを祝福する、ということは、こういうことだ。私たちは、好きな異性と結ばれることが幸せだと思っていて、そして目の前に、そうして結ばれた二人がいる。この二人は幸せである。だから祝福する。
つまり、ここでは、好きな異性と結ばれることは、その当人たちにとってだけではなく、世間一般にそれは幸せなことである、という考え方が前提になっている。この考え方、語り方、祝福のやり方は、同時に、好きな異性と結ばれていない人びとは、不幸せであるか、あるいは少なくとも、この二人ほど幸せではない、という意味を必然的に持ってしまう。
そうすると、ある二人の結婚を祝う、ということそのものが、たとえば単身者や同性愛者たちにとっては呪いとなるのである。

という所とか、(そもそも「命題と論理」的に主張が微妙な気がしないでもない、というのは置いておくにしても)、対象の属性レベルでの議論に終始しているために極端なことになっているようにみえる。祝福という行為は別に特定の社会的行為およびその価値体系に対する賛同のみを意味するものでなく、そこから離れた「個人」単位に対するものとしてもあり得るはず(「個人」とは、日常的な意味でも可だと思うが、ここで問題になっている特定の単一のアイデンティティに帰着できない各種の特性の集合からなるもの、というニュアンスのつもり)。
まあもっと言えば、特定の価値観(ここで言えば幸せについて)に皆が則ることが前提になっているように見える(そしてあまりそういった点の是非は議論されない)が、むしろそこに閉塞の原因があると思われるので、その辺を気にするべきという気はする。
とまれ、そういった面で気になる点はあるものの、全体としては強い印象を残す本で、読んでよかった。

断片的なものの社会学

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