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知識人とは何か

ポストモダン的な悪しき相対主義が蔓延し、権力に阿る「専門家」のはびこる現在において、その困難性が増しているようにみえる「知識人」とはなにか、という問いを考察する本。
グラムシのいう有機的知識人(階級や運動と結びつき権力を手に入れる)だらけの現在において、バンダのいう、この世ならざる普遍的価値に傅きながら社会の不正に挑みかかる知識人像という(明快に『神』の存在した古き時代の)理想をある意味で肯定しつつ、サイードは知識人を、「何らかの立場をはっきりと代表=表象する人間、そのために知的自由を守りぬこうとする人間」、「安易な公式見解や規制の紋切り型表現をこばむ人間」と主張する。
しかし、この主張は本文内でも見られるようにともすれば、自ら考えて吟味していくといった姿勢からたちまち、常に反権力側へ与するというような安易なものへと変容してしまう。たとえば本文中ではウルフの「自分自身の部屋」での言葉、
「人ができるのはただ、なんであれ、自分のいだいている意見を、自分はどのようにして、いだくようになったのかをつまびらかにすることだけである。」
をとりあげ、
「決定的な言葉をもたらす独断的な預言者としてしゃべるのではなく、知識人として、女性という忘れられた「弱き性」を女性に見合った言葉で表彰するのだから。」とする件が見られるが、ここでは既にウルフの言葉は「女性」という弱き立場からの言葉であること自体によって筆者サイードの支持を約束されているとともに、表現方法自体も弱き立場に見合うものに拘束されている。既に確立された「権力側」の言葉による表象に対しては敏感である筆者だが、権力側へのアンチテーゼという立場自体が加えるこの拘束への言及はまるで行われず、そこには反権力というポジションによる権力との共犯関係の問題への自己言及は希薄に見える。
一方で、単一の立場に立つこと・イデオロギーを是とすることの危険については「いつも失敗する神々」という最終章題に見られるように強く意識されており、亡命知識人としてのアドルノを例にあげながら「永遠の漂泊者」であることや、また専門家であることへの圧力やそれのもたらす恩恵から逃れて、アマチュアであることの重要性を主張しているものの、これについても、「漂白し続ける」という態度自体が一つのイデオロギーでしかない、という自己言及は見られず、どうしても、「キッチュ」を徹底的に憎み、軽さの境地へ至ろうと自らを希薄なものへとしていった「存在の耐えられない軽さ」のサビナを思い出してしまう(サビナは自らの姿勢の問題点に自覚的であったが)。
詰まるところ、本書での数々の主張は(きわめて魅力的内容を含む一方で)どうも自らを外において成されたようなものに見えてしまい、いまいち説得力を欠く。むしろ必要なのは常に弱き者の側に立つと公言するような正義に対するナイーブさや、「漂白的存在」である自己とその「アマチュアリズム」への自己言及なき積極的肯定ではなく、何かの立場に立ち、それの重要性を(一種狂信的に)信じこみ、主張することが必然的に孕む一種の「軽さ(馬鹿馬鹿しさと言っても良い)」というものを受け入れた上で、既存のものを鵜呑みにしたりそれに安易に与するということせずに考え、発信するという態度ではないだろうか。

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)