アナレクタ掲載の筆者講演の再編集文庫化。アナレクタ自体を気にはなりつつ読めていなかったので、今回のまとめは非常に有難い。タイトルは「同」旧字で反復も意味するらしく、単に中身の改変をしなかったという意味でなく(これはあとがきにも在るように著者自身は一貫性という意味で肯定的に捉えているし、それに反対する意図はないが)、著者が重視する反復からの(リズムの)生成を表しているのかなとか。
掲載されている講演は、大きく3つのグループに分けられるという印象を受けた。すなわち最初の「自己の死をいかに死ぬか」、「歓び、我々がいない世界の」から「『われらの正気を生き延びる道を教えよ』を要約する二十一の基本的な註記」までの道徳をめぐるニーチェ(+フーコー)、安吾の思想を背景にして、藝術、震災、革命について語るもの、そして最後の大学の歴史を巡る「失敗せる革命よ知と熱狂を撒け」。
1つ目のグループの「自己の死をいかに死ぬか」は、まあなるほどという感じ。「死の二重化」という一神教の「トリック」(こう言ってしまっても良いだろう。そう考えると「生ける屍の死」が想起されるが、改めて凄かったと思わされる)、ブランショの思想(レヴィナスが類似したことを言っているという認識だったが、不勉強でこのへんの関係を知らない)など。
2つ目のグループに関しては、まずは、道徳と対抗する反道徳の構図へのニヒリズムを超えて創造せよ、という話で、まあこれもなるほどというか、藝術とかの文脈だと結構しばしばあるもののような気もするが、ベケットのいう藝術の姿の件は感動的。
続いての、フォン・クライストの「チリの地震」と安吾の「堕落論」を巡る(複雑な)議論が本書の一つのハイライトか。クライストによる、それまでの社会の「地盤」を揺らがすような出来事によって生じる、「誰が誰かもわからなくなった」奇妙でかつ美しい(ゾーイの言葉が思い出される)共同体の顕現と旧来の秩序への回帰を目指して行われる惨い仕打ち、これが安吾のいう、戦争時に出現したある種の「美しさ」とつながる訳で、ここで戦争は「非道徳的」である一方で戦時に露わにされるむき出しの生の美しさを孕むものとなる。もし安吾のいう「堕落」が虚構のイデオロギーと離れて、むき出しの生を志向せよ、というのみのものであったなら、ここで堕落論は混乱に陥るわけだが、著者によると、安吾の「堕落」とはそういった向き・志向性ありきで、それに拠ってのみ担保されたものではなく、非道徳性から非道徳性への推移でしかあり得ないかもしれないが、新たな地盤・道徳を創造していく必要が在るのであるという主張のこと。「戦争で負けたから堕ちるのではないのだ」、「大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから」という安吾の言葉、は、それまでの虚構への認識とその後の創造のいずれもを欠いた態度への、かなり痛烈なものと感じる。
ここまでは面白く読んだが、この後の「変革へ、この熾烈なる無力を」に関しては執拗に、事故のタイムスケールの大きさの強調と後から来るであろう(ヘーゲル的な)歴史総括の無意味さを語るとともに、勉強の末に「信じる、信じないって話なの」という言葉に是と言い、「これは賭けです」という点を強調する点について非常に気に入らない。
我々は常にすべてを知ってから選択できるわけではないというのはその通りだが、したがって出来る限り「勉強」し、考えて、一時的にでも最善と思える選択をしていく(それはもしかしたら歴史総括で罵倒されうるのかも知れないが)というのが、思考の力というものだと思うのだが、タイムスケールが長いと良く分からん、定量的な見積も難しくてよくわからないし何だかよくわからないと怖いから怖いものは考えないようにして安全と思える側に兎に角いこう、結局良くわからんので信心の問題だ、何も信用出来ないから一種の賭けだ、二者択一だ、という方針は、凡そ何かを考えるというところとは程遠いものではないだろうか。そうして、えいやとばかりに根拠なく「賭け」、決断して、その結果が問われる頃にはお役御免、死んでいる(著者の口ぶりでは30年だかで結果の一部が分かって、プルトニウムウラン半減期が結果を歴史に問われるタイムスケールらしいので)、というのでは笑えないし、その決断主義が、ものを産み育てる土壌(これはこの文脈にとどまらず一貫して著者が意識していることと思うが)を作るものとは到底思えない。

最後の「失敗せる革命よ知と熱狂を撒け」は大学と人文知の歴史は知らないことが多く面白く読んだが、むしろ腐敗の定めを内包している「革命」で無条件に許されるのはその始祖にある意志のみということでは、という気がした。反復の前に反省が必要というか。

全体としては面白い点もあるが冷静に読むべきという印象。