日本国宝展

今日が最終日ということで行ってきた。予想されていたことではあるがさすがにある程度混雑は免れず。今回は信仰がテーマだったのか、それにまつわる作品が多くを占めていた。気に入ったのは「地獄草紙」、「阿弥陀聖衆来迎図」、「僧形八幡神坐像」、「玳玻天目」。

ところで、時代を超えて作品が残る条件ということを考えた時に、作者と見る側にとって背景の共有が容易であるという意味でも、(それによって)価値が認められやすいと共に帰属関係が明確なので保存もされやすいという意味でも、やはり芸術にとって宗教というのは強力な後ろ盾である(あった)と思った。あと文脈とか帰属が明確だと、歴史的な体系立てというものが成されやすくなる用に思えるので、そういった意味で、(学問的な対象としても)大きな流れの中での位置づけ、という意味で各作品が意味を付与され注目を集めやすいような気もする。
より一般化すると、芸術、より広い意味で、何がしか突出した技術(芸)をもって何かを創りだすという行為の生産物がその後残って伝わっていくには、ある種の「物語」の存在が大きな役割を果たすと予想されるが、そういったものの生成も、(もし何がしかの理由で十分に行われていないなら)生産物の創造と同じ程度一生懸命にやられる必要があるのでないか、と感じた。
例えば将棋でも、新手の研究と同様に、それらの背景を共有可能な体系するための「言語」化がなされるべきということ(その意味で勝俣教授は大変得難い存在だが、その後はいるのだろうか)だし、下でスマブラの話を(たまたま)出したが、それについても同様のことは言えそうな気がしていて、格闘ゲーム(の技術)がもしある種の「芸術」としてこの後長い先まで残ることを考えたなら、ある程度こういった要素が必要になってくるのではないか。
まあおそらくこんな事はどの分野でも既に認識されているのだと思うが、「言語」化についてももっともっとやられて見える機会が増えれば個人的には嬉しく思う。