2014.11.23

単一の日付をタイトルにするのがひどく久しぶりの気がする。見ると2年前の10月以来か。
日々着々と何かを書き留めるということが昔から出来ない、という点については、何か特別なイベント(何かが達成されたとかどこぞへ行ったとか)がない限り、その日を取り上げて特筆することがあまりないために書き留めるのが億劫になることの帰結であるとか、あるいは一生懸命毎日何がしか面白いことを考えこねくり回して書くほどのモチベーションはないことが原因だと考えていた。
しかしふと先日のユリイカの影響でmorilog academyを読んだり、自分が巡回している(研究者)ブログ群を見て気がついたことだが、根本的な問題はこれらの著者(卑俗な表現だが頭の良い人)に比べて質的な意味で圧倒的に頭を使っていないことというよりむしろ、頻度的な問題、すなわち頭を使う機会自体が圧倒的にプアーであることだということに気がついた。
今までは頭のいい人は日々ちょっとした事に対してもたちまちその本質的な所を抽出して、鋭い指摘を行うことが可能であるとか、研究者はものを真剣に考えているから、読み手が直接その対象に関して十分な理解がなくとも、その考えの軌跡や姿勢が文章ににじみ出てくるため文章を読むだけでも面白いとかの、書かれた文章の意味とか価値が潤沢であるかどうかという点が、(著者をして)文章を書く方向へドライブせしめるために、結果として頻度の差に結びつくのだという認識だった。
しかし、文章を書くことは(最も単純化かつ一般化すると)外界からの揺動への応答として考えられると思うが、どうやらそもそもその応答の頻度というか感知能力的な所が自分のようなプアー(片仮名書きした時の間が抜けた感じが最近気に入っているので乱用する)な文章しか書けない人と、いわゆる「頭の良い」人の最大の差であり、そしてそれに対して時間と力を割いてちゃんと考える、その結果としての内容の質という部分の差は(内容が書き手のプロ、本業的なものでない場合は)どうやらその次に来る、二番、三番的な差であるようだ。具体例を示すのは難しいが。
これまでは何かのプロになった上でもなければ、色々なことについて気の利いたことを言うといったことばかりやっていると先っちょに立花隆とかがあるような線に乗っかってしまうと思っていたが、兎に角何がしかを考える、書くということ、その機会自体が致命的に重要だということが分かった。以前何かで見た(休みの日に映画や観劇に頻繁に向かう理由を尋ねられたドゥルーズの言葉だったか)、「私は待ち構えているのだ」という言葉も、こういった面につながり得るものかもしれない(正確な文脈を十分に把握していないのであれだが)。
ただ、それと日記としてここに何か書くという形が適切なのかどうかはまた別だが。