存在の耐えられない軽さ

人生において(パルメニデスの言う通り)「重さ」は悪で「軽さ」は善なのか?という問いをメインに据え、プラハの春とその後のソ連介入を背景に、使命感と偶然性のもたらす虚無感、身体と自己、などの相克を体現した登場人物たちにより繰り広げられる劇場的な物語。
問題提起が二者択一的という危険を孕むものであることや、ともすれば饒舌過ぎる作者の語り、前時代的な農耕万歳な所など問題もあるものの、描かれていることは(個人的にこれまで読んだ本の)一つの総決算に近いと感じた。仮に人に1冊読んだ本を選択して薦めることがあれば(人の褌で相撲を取るようで下品なのでこの行為は好きではないし、まずやらないが)、現時点ではこれを選ぶ可能性が高い。

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)


以下は読んでる最中に考えたことの散漫なメモ。

トマーシュ:きわめて限定された差異を人間から抽出することで世界を理解する、という形式(小説内ではそれはメスで人体を切り開く外科医という職業とドンファン的振る舞いに体現される)により、ある種のメタ的立場に立つことで自己の存在の絶望的な軽さから脱却しようとする、近代的な自己意識の呪い(本文中では天職への「Es muss sein!」という呼び声でそれは語られる)を体現した人物。偶然のオンパレードであるテレザとの出会いという「重さ」を引き受けたことで、時代の変遷を背景にそれまでの自己と結びついたあらゆるものを失い「軽さ」の極みに下ることになるが、そこで顕現してくるのがラストの「悲しみは形態であり、幸福は内容だった」という境地。

テレザ:若さの資本主義の前に搾取されつくし、それを憎むようになった母親に身体の否定という呪いを負わされたことで身体と心の分離を余儀なくされ自己の身体を肯定できなくなるとともに、同時に自らの愛と性の直結した古めかしい観念のために、愛における「弱さ」を背負うこととなった人物。異常に大島漫画の主人公的。ドンファンのトマーシュに愛されることと自己の肯定を同一視してしまったために地獄のような状況に陥り、非人間のカレーニンへの無償の愛を経て、弱さの極限に至ったトマーシュと外部から隔てられた場所で幸福に至る、という件など完全に「ダリアの帯」。

サビナ:存在との絶対的な同意であり、厳然たる存在の軽さから目を背ける「キッチュ」への敵意を行動原理として、「裏切り」のもとで「軽さ」を体現した人物。パルメニデス的には最も好ましい人物のはずであるが、思考と問により抗い続けた彼女も「キッチュ」から完全には逃れ得ないこと、さらに「キッチュ」から逃れ続けられる、という幻想こそが軽さからの逃避にすぎないため、自らを希薄にし続けるような生涯を送ることになる(ある意味でスターリンの息子的)。トマーシュの息子からの手紙が偶然読まれ得難い邂逅が起きたり、という「予告された殺人の記録」とか大島漫画的な奇跡の展開も一瞬想像したが、何も起こらず。

フランツ:脳足りんのインテリ。筋骨隆々、母親への欲求にとらわれているなど、「男」の体現。大行進の魅力に抗えずカンボジアまで向かい、そこで茶番に気づく(しかしこの滑稽さは「他者」との断絶という意味で人間の生に本質的)が非業の死を遂げ、その死は妻によりキッチュで塗りたくられる。

全体としては、存在地獄から抜け出るには「弱く」なり、その滑稽さ、自らの吹けば飛ぶような軽さを受け止める他ない、という話か。(例によって田舎で細々、というのが善となってるのはナイーブな気もするのだが)。

政治背景とか息子に関して上では殆ど触れられていないのが問題だが、気が向いたらそのうち考える。