同一性の謎

フランスの高校生を対象に行われた講演をメインに書かれた本。
講演では、何故か説明を省きすぎる嫌いがあってかえって分かり難くなっている印象。後訳者あとがきが読む助けとして有難い。

本書では、講演の「向こう傷」という題に象徴される、望むと望まざるにかかわらず刻みこまれている、キリスト教に代表される西洋的文明の痕跡に対してルーツを探るとともに、相互作用する文明と主体の間で構築された人間の同一性に関しての考察が成される。

前者に関して。ユダヤ教に「対する」という形で生まれ、かつそれゆえに制度を持たなかったキリスト教がローマ法を吸収する形で生まれたのが本書でいうところのユダヤ=ローマ=キリスト教
キリスト教は、ユダヤ教に対して、聖典準拠主義のユダヤ教に対する柔軟性や、洗礼と割礼に代表されるような精神(キリスト教)と身体(ユダヤ教)といった対立項をもって対峙してきた。
しかし、キリスト教聖典は法制度を内包していない点が重要であり、従来は「神の」裁きによりその点が埋め合わされていたが、ローマ法を吸収する形で新たに制度を構築したのが、ルジャンドルの言うところの12世紀解釈者革命。
このローマ法は「合理性」を拠り所にしており、したがってキリストあ教的文化圏に留まらず拡散するポテンシャルを持っていた、というのが今日世界でローマ法に端を発する法制度が受け入れられた所以である。

ルジャンドルは考古学的に現在の西洋において当然のものとなっている合理主義の起源を見た上で、より一般的な人間の同一性の問題に関して議論していく。
そこで重要とされるのが精神分析で扱われる無意識の範疇であり、これを通じて我々は同一性の系譜学的な側面(「向こう傷」)を認識することが出来る。同一性とは、主体(意識されている面)と「向こう傷」(意識されていない面)の二つからなり、その分節を与えるのは系譜学的に与えられたバックグラウンドとしての文明(それは突き詰めれば「トーテム」へと行き着く)なのだ、と説く。
上述の西洋の場合と合わせると、本来系譜学的側面の一つであったはずの、ユダヤ=ローマ=キリスト教的世界観が、そのローマ法の持つ、「合理性」に拠って立つ「神」無き制度である、というロバストネスを背景に(ここには今や経済性も含まれるが)拡散し、権力性(これはローマ法が法制度であるため、国家的な意味も同時に持つ)を持って現在の西洋文化として君臨している、という現状の中で、その系譜性を再認識すること、そして、それらが系譜性(と同時に権力性)を隠して、「真理」として振る舞おうすることに対して意識的であるべき、ということになる。

読んでいて、以前指導教官の話で、海外に行った時に向こうの研究者に「あなたは日本人なのになぜ物理をやるのか?」と聞かれた、というものがあって、それを思い出したり。それを聞いた時は西洋人はすぐ自分のアイデンティティと歴史性みたいのを結びつけるのだな、ぐらいしか感じなかったが、その認識(とその裏にある前提)とかはまさにこの本の扱ってる内容だし。後は、我々自身の文明による分節、に関して考えるときに、現在の様々な混淆とした文明の影響を扱うにあたって、この考古学的な方法(様々なものをそぎ落として起源に迫るときに落ちている、本質的な複雑さがあるのでは)で良いのか、というのは気になったり。なんかセンの本に似た話があったような気がするが、今の我々からスタートして、このように絡んだ紐を解いていけるのか、というのは疑問でもある。

全体としては難解だが、訳者あとがきまで含めて良い本な気がする。

同一性の謎: 知ることと主体の闇

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