生きがいについて

書き出しの「平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしいかも知れないが、世の中には、毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。」が非常に印象的な本。
「生きがい」について、それが一体どのようなものなのか、どのような状況において得られていると考えられるのか、一度それが失われた人がどのようにして、再び歩み始めるのか、などについて、様々な文献を参照しつつ思索する本で、特に「生存充実感」を感じるには適度な抵抗感が必要である、という点など退屈論ともリンクする点があり、興味深かった。
つまり、向かわんとする目標がはっきり当人に見えている度合いが明確ならば、そこへの道中の障害は「適度な抵抗感」だけど、目標が見えづらくなるにつれて、「時間の引き伸ばし」を余儀なくされる退屈の第一形式へ移行する。
しかし、見通しが効かなくなると、目標に直結する(と感じられる)行為を行なうことも難しくなり、そこからの脱却のために「気晴らし」を行う必要が出てくる。
気晴らしは「本来やろうとしていること」あってこその気晴らしなので、本来するべきことを見失った状況では、「気晴らしにおける退屈」というものが生じるようになりこれこそが退屈の第二形式だと考えられる。
これがもっとひどくなると、気晴らしの「気晴らし」という意味が完全に失われて、向かう方向を見失った状態になりすることも見つからない。これが「なんとなく退屈だ」という第三形式と考えられる。
この打開手段は「真の目的」の発見ではなく、「気晴らし」に対して自ら意味を与えていくこと(というのが國分論だったはず)。

戻って、この本だと目的や効用から離れた俗世的なことでないこと(出てくる例は芸術とか数学とかなのだが)こそ本当の「生きがい」となりうるものだ、みたいな所があって、そういう所はちょっと安易なのでないか、と思った。後は何かを「生み出す」のが人間の本来的な喜びである、とか。
何というか、そういう「生きがい」の方向性の暗黙の規定みたいなものはあまり受け入れたくないというか、周りの人が凡そ共感できないようなものに対してもそれを「生きがい」にする人がいれば、その人が「ただいる」という厳とした事実において、それは(共感可能性とかと全く別次元のものとして)認められる、みたいのであってほしいという思いがある。

散漫な感想になったけど、巻末の日記に見える意志の強靭さやこの本への思いなども含めて読んでよかった本だと思う。

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)