暇と退屈の倫理学

ここ最近(下手すると年オーダーで)で読んだ本では最も面白かった。
説明がとてつもなく上手いうえに構成も巧み。どの議論がどこを肉付け、後押しするのかというのがガチャガチャはまる感じが読んでいて実に心地良い。

話の筋としては、暇と退屈、という古くから論じられてきたテーマ(といってもこれを読むまで全く知らなかったが)があって、その一つの到達点であるハイデガーの退屈論を5章で論じ、更にそれを超えていくにはどうすればよいか、というのが中心のライン(とはいえその前の、筆者の論を支えるための伏線とでもいうべき部分も広がりと深さのある内容できわめて面白い)。

その辺りに絞ってざっくり書けば、暇と退屈とは同一視されるものではなく、単純に考えると
(1)暇で退屈
(2)暇でなく退屈でない
(3)暇で退屈でない
(4)暇でなく退屈。

の4通りあるわけだが、ハイデガーは退屈として((1)と(4)にそれぞれ対応する)「退屈の第一形式」と「退屈の第二形式」の存在を見出した。
彼は退屈とは、自らの望むものと実際に得られるものの不一致のもたらす満たされぬ気分である「空虚放置」への「ひきとめ」であると考え、例として駅舎での待ち時間を上げながら、「退屈の第一形式」とは外的な要因で「引き伸ばされた時間」を過ごすことを強制されたために生じるものであると考えている。
一方で、上とは全く違う「退屈」として、パーティーで確かに楽しいひとときを過ごしながら帰ってみて退屈していた自分に気づく、という例を用いて、「気晴らしに際して退屈である」という退屈の第二形式の存在を明らかにする。
ここでは第一形式と異なり、ただ気晴らしへの受動的な態度がありその結果として自己の中に空虚放置が生ずる、という構図のために、一見受動的な態度でありながらのわがままにしか見えないが、我々の日常は第一形式を感じるような、「没頭とその合間(の退屈)」で構成されているというよりはむしろ「絶え間ない気晴らし(とその中で不意に生じる退屈の感覚)」で構成されているため、この退屈はきわめて不可避かつ本質的なものといえる。

そして最後に第三の退屈として提示されるのが「なんとなく退屈」という状態である。
ここでは凡そあらゆるものがままならない状態であるが、この状況下においてはじめて人間は自身に目を向け、退屈という事実を通じて自己の自由に気づくのだ、とハイデガーは主張する。そしてそこにおける「決断」こそが自由を実現するのだと。

この主張に対して、筆者はそこにあるのは、ハイデガーの環世界批判に見え隠れする、人間は動物のように何かに「とらわれて」いない自由な世界形成的存在である、というある種の「本来性とそこへの回帰」という神話とでも言うべき前提であると喝破する。

筆者は人間は世界形成的という点で動物から区別されるのではなく(それが人間の本来性なのでなく)、動物に比べて高い「環世界間移動能力」を持っていることが人間の特徴なのだと唱える。その結果として人間は単一の環世界に没入することなく、結果としてしばしば退屈に襲われる、すなわち退屈の第二形式(気晴らしと退屈の繰り返し)こそが「人間らしい」退屈であり、「本来性」や「決断」に安易に逃避するのでなく、それを受け入れるべきだという。
ここの、現状から脱却しての没頭こそが「本当の人間性」の獲得、なのではなく、むしろ日常的な、一見疎外されている状況の退屈とそこからの気晴らしの繰り返しこそが人間的、という逆転の主張は鮮やかで唸らされる。

ここまで読んで、こうした主張がこれまでの前半の章での議論で裏打ちされていることに気づいた瞬間のゾクゾク感は尋常ではなかった。

例えば2章で提示された系譜学、すなわち定住革命(人類は外的要因により遊動から定住への変化を強いられた)と、遊動で必要とされためまぐるしい外界変化への適応が定住で不要となったことが、人類への「退屈」をもたらしたという話は「退屈」している状態こそが「自然な」状態であるということをにおわせる。

また、3章での消費社会論における、ガルブレイスの「新しい階級」に代表されるような、やりがいのある仕事に携わるのが幸福、という価値観も自明なものではなくむしろ構築されたものであることに他ならない、というのは無論、身を投げる対象として分かりやすい「大義」を無批判に受け入れるべきでないということをほのめかす。

4章の疎外論(ここは大筋からそれ気味な割に難解だったと思うが)は当然、ヘーゲルハイデガーの囚われている「本来性とその回復」という幻想を批判するためのものに他ならない。

さてこれらを踏まえて筆者は結論として、消費者でなく浪費家たれ、ということと、避けられぬ(第二形式の)退屈の中で、「ものを味わい、楽しむ」こと、そしてその円著として「考える」ことを主張し、ものを享受し、気晴らしを楽しむことで「バラで飾られた」生活を送るべきと主張する。

この辺りも特にドゥルーズの引用の格好良さとかと相まって非常に印象深いものになっていると思う。
また、この辺まで読んでくると、1章で紹介されたパスカルやラッセルの退屈論の急所の突きっぷりに驚かされる。パスカルの、退屈(の苦しみ)から逃れるために、苦しみを伴う気晴らしを求め、それへの没頭を必要とする結果、目的と手段を混同させざるをえない人間の「惨めさ」とか、「気晴らしが没頭を必要とすること」など、かなり本質をついている(退屈を悪とする考え方からは、この没頭がもたらす反省の欠如を否定的に扱えない)し、ラッセルの「事件が起こることを望む気持ちがくじかれたもの」という退屈の定義は本書の最後に直結する論点と思う。

しかし、個人的に唯一納得しきっていない点があって、それはハイデガーの退屈の第二形式で出てきたパーティーの例の解釈。筆者はパーティーで提供された様々な「もてなし」を「楽しみ味わう」ことがハイデガーにはできなかったため退屈のだ、と結論づけているが、本当にそうなのだろうか?
原典にあたった訳でなくあくまで本書の引用部を読んだだけなので笑止千万であることは承知だが、引用箇所であそこまで「慣例通り」という言葉が繰り返されていたのは、もてなしの細部を味わい楽しむことが出来ず彼が平坦に受け取っていたからではなく、もてなし自体が本当に「慣例通り」の意味しか付与されていないものとなっておりそこに辟易してしまったからではないだろうか?
ハイデガーがあの場で受けた「もてなし」はおそらく本当に洗練されたものだったのだろう。しかし、こうした「文化」の高度化、洗練はその記号化と切っては話せないものだと思う(これは人間が「思考の簡略化」を望むという(本書でも指摘のあった)事実とも合致する)。
つまり気晴らし自体が何らかの原因(それも意図されるか否かにかかわらず)によって慣例化、記号化する傾向を含んでいるものであり、ハイデガーはあの場においてその記号化したもてなし、更にそれを皆で満喫しようとする雰囲気に退屈したのではないだろうか。
とすると、我々は退屈との付き合い方として単に「常に瑞々しい気晴らし、本来の意味を損なわぬ文化」の存在を信じ、それを味わうことを求めるのみでは駄目で、それ自体空虚に記号化されていく傾向を持った気晴らしからいかにして逃れるか、それに倦んでしまわないか、ということを追求する必要があろう。
そのためには(ここは十分考えきれていないが)「暇」と「孤独」の存在が大事になってくるのではないだろうか?

ともあれ大変密度の濃い本で、ここ数日は暇さえあればこれを読んでいる、という感じであり、こういうのはかなり久しぶりで本当に楽しめた。「スピノザの方法」にも頑張って挑戦したいし、何よりももっとここで知った様々な原典にあたってみたい。

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学