自由とは何か

自由とは何か (講談社現代新書)

自由とは何か (講談社現代新書)

まず副題がある意味ミスリーディング。ここにあがっているような例(自己責任論や理由なき殺人)は確かに本文で考えるべき例として出てくるのだが、それらを扱うことはこの本の主眼ではないため枕以上の意味は持たされていない。したがって上述の問題などに納得いく意見が示される、とかではない。
その上議論の中で、ある意味後の結論の先取りとでも言うべき、道徳観念の暗黙の前提化みたいのが行われているために、読み始めは大変先行きが不安になる本だが、中盤以降はさすがの議論で特に5,6章は興味深い。
個々人の無拘束な自由の実現可能性を指導原理とするリベラリズムに対して、筆者はその可能性以上のものを求め得ない構造の問題性を指摘すると共に、社会的、文化的背景から逃れた「透明」な個人、そして「透明」な自由というものはそもそも存在しないと批判する。
指導原理を与える共同体の中で初めて、承認とその認識という形での「自由」という感覚は生まれるものだが、それで説明出来ない領域を扱うために、筆者は「義」という概念を新たに提唱する。自らの生の「偶然性」、そして過去と死者への責任を受け止め、宿命を生きる、という中で承認と尊厳を求める、というものなのだが、この中で初めて自由(本文ではこう呼んでいない気がするが)というものが現れてくるのだと、そして各人のこの「義」の多様性、相対性を認めた上でのバーリン言うところの「神々の戦い」が起こるべきだ、という主張は(ジョジョの人間賛歌まんまだが)説得力がある。
ただ勿論疑問もあって、あらゆる(非社会、共同体的な行動の)動機がこうした「義」で説明できるとは考えづらいというのはある。多くの場合、人は社会ではない共同体への帰属として選択を行うのみではなく、むしろある種の「納得」を求めてそれを行動基準にするのではないだろうか。もちろんその「納得感」はこれまでの共同体や文化への帰属などから生まれた意識なのだろうが、人は単一の共同体に所属するわけではなく、その混合の経験とその帰結をもって「自分」としているはずであり、そこから生まれた「納得感」をある共同体への帰属意識へと還元することは出来ないのではないだろうか。

後はまあ、バーリンの主張をこの「義」理論が本質的に超えてるものなのか、とかもある。

とはいえ非常に面白い本。前半からもう少し、真にやりたいことをクリアにしてくれればより読みやすかったと思うが。