2011.08.17-20

17日

あまりに暑いので家でだらだらする。電子相関の物理2章の続き読むなど。t-Jモデルの導出が未だにしっくり来ない。

18日

暑いが昨日休んだので大学行って理論演習の中間報告作る。

19日

昨日の続き。途中まさかのレポ再提出のお達し。実際その頃はレポ複数抱え込んでたり発表の準備とかで大分立て込んでいて、かなり程度の低いものを出した、という自覚はあったので良い成績とかは微塵も期待してなかったのだが、ショック。

もう少し正確に書けば、大学院にもなって成績いかんとかのことから逃れられず、未だに気にせねばならないこと(もっと大事なことは山のようにあるのに)が割と信じ難い。
正直言って、長期的なテーマも定まらないままに、文字通り先も見えず盲滅法にあがいて終わった夏学期が(長期的かつ冷静に見たとして)失敗だったとしても(それ自体には自分で決めて無様ながら選んだことなのでそれ程の後悔などはないが)、その代替案が授業をしっかり受けてレポートをきちんとやることだった、とはちょっと思えない。もちろん全て、ゼミなり授業のレポートなりテーマ選びなりみっちりやれば良いのだろうが、ちょっと今(ないし当時の)自分の力量ではそれは到底無理。実際4,5月のゼミ週5の辺りは精神的に破綻気味だったし。
まあごちゃごちゃしてきたので簡単に書けば、院に入ってどうやっていけば良いのか、というのが分からず足掻く、というのはある程度予想されていたことだったし、先が見えず厳しいながらも、とりあえず(長期的に見た時の善悪とは又別にして)色々やってみるのは必要なことだと思っていたのだが、どうも実際はそうでなくて何か「王道」のようなものが存在して(それは講義に出る、レポートを書くといった)、自分のやってたことはそれから外れた、外から見たら正しく「意味のわからない」ことであったということを今回のことでほのめかされているようで大変衝撃を受けた。
ここにはおそらく自分の、いわゆる正統的な「講義を聞いて勉強すること」への致命的な苦手さ(これは小学生の頃からそうだったが)と、その結果として本を自分で読んで勉強する、という手段によってきたこと(塾とかは行っても、分かったと思えるのはいつも大体本読んだ時だった)みたいのが、大学で物理をやるということにおいてひとつの手段として自然なものになったのか、と思っていたが(これは言い過ぎか)、それが物の見事に打ち砕かれた感じ、というのもあるかもしれない。

ますますごちゃごちゃしてきたのでこのあたりに留めるが、何だか息苦しいししんどい。

20日

スタバ行って物性物理3のレポやる。資料が思ったより(授業の時は無理やり情報を詰め込んだという印象を受けた)ためになることが書いてあることに気づく。