雪之丞変化

午前10時の映画祭でやっているのを観に日本橋へ。宣伝での画面の美しさに惹かれて、あらすじ程度の予習しかせずほぼ予備知識ゼロのまま行くが、予想よりも大分楽しんで見ることが出来た。

雪之丞と闇太郎との一人二役長谷川一夫(さすがに加齢の影響は隠せず、と言う所はありつつも)の目の迫力や、明暗のコントラストにより空間を狭く感じさせず、絵も単調にならぬようにする技巧、時代劇らしからぬものだがこれはこれで、的な音楽、そして七五調(正確には違うが)な台詞の美しさ、など見どころは多い。粗筋はまあ特に、ではあるが、個人的には(潜在意識的に)仇討ち(それも徒党を組むことなしのもの)に惹かれる点はあるためか、そこそこ面白がって見れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

銀河英雄伝説 6

ティアマト会戦からアスターテ会戦へ。前巻までとうって変わって大変面白かった。

今回わかったが、おそらくこれまで戦闘の場面自体が興味を惹かなかったのではなく陳腐に見えてしまう戦術の話が興を削ぐ所が問題で、今回は同盟軍の愚かな行動が(戦術論的なところでなく)心理的な面に起因するものとして紐付けられたので、(よくある漫画的な力業的なものとして)すんなり読めた、という気がする。

 

 

 

アグリコラ(精妙な計測装置としての)

先日ボードゲームの「アグリコラ」をやる機会があった(ファミリーバージョン)。数年前に一度プレイしただけで、その時は時間もなく途中でお開きだったので、1ゲーム通してやったのはこれが初めて。

 

アグリコラ:ファミリーバージョン 日本語版

アグリコラ:ファミリーバージョン 日本語版

 

結果としては最下位かつ割とボロ負けだった。ゲーム自体については非常にレベルが高いというのがまずの感想であり、やっていて大変楽しめたのだが、最後に自分の負けを確信した所(このゲーム、終盤の途中で勝ち負けが明快に見えるタイプだが、その後も直ちに終わらず暫く続くので、ああしておくべきだった的な色々な思いが頭をよぎる)で、この駄目な感じが何かに似ている、と思い、そこで思い至ったのが、いわゆる(カジュアルな、世間一般で言う意味での)社会的な生活ということであった。

このゲームの特長として、運要素が比較的少なく、かつ「適切なタイミングで適切な行為を行うこと」の重要性が異様にわかりやすく可視化されることがある。

ゲームのルールは複雑なので略するが、勝負を決めるルールの要は、最終的に競う各人の得点に対して、条件を満たした際の加点ボーナスに加えてゲーム終了時までに適切な行為を行っていなかった場合にペナルティがある(減点措置がある)、というものであり、色々な方面からの採点に対して、いかに条件を満たす振る舞いをすることで、減点を喰わずに加点を重ねられるか、というのを競うという枠組みになっている。

この条件をみたすためには幾つか段階を踏んだ行為を行う必要があるが、それらの実現可能性は対戦相手の行為にも依存するため、好きなタイミングで行える訳ではない。

ただし、「段階を踏んだ行為」の各段は、その行為の性質上序盤、中盤、終盤のどこで行うべきかが色分けされており、結果として比較的きっちりした「定石」的なものが生まれる(ように見える)。

なので、適切なタイミングで適切な行為を行っていかないと、バスに乗り遅れるというか、結果として別の条件を満たすための行為ができなくなるリスクが生じ、多岐にわたる加点評価に対して満たせないものが発生して不利になっていくという仕組み。実に道徳的。

段々面倒くさくなってきたので一般化せずに固有名詞を出すが、たとえばゲームのポイントに直結する「家」を建てるにも、木の家⇒煉瓦の家⇒石の家と適切な段階を踏んで家のグレードを上げていく必要があり、各手順は一足飛びに実施できることはない。したがって、適切に家を育てていく必要がある(自分は夏休みの宿題よろしく、最後にまとめてやろうとして見事に失敗したが)。後は、家族の数がポイントに直結する(ゲームの背景としては、農耕他を上手くやって家族の勢力を拡大していくというものである)のだが、ポイントに目がくらんで早いうちに無理して子供をもうけると、その後食い扶持確保のための(率の悪い)労働に追われ続けるとか、他人事の話として聞いていれば説話といったところだが、ゲームの中だといとも簡単にこのような行為が出来てしまうのには(自分の阿呆さ加減に)全く驚きであった。

という訳で、アグリコラ、適切に人生設計をやってそれに従って着々と進めていく、という、「良き生活」力を図るのに大変優れたゲームと思う。色々なスクリーニングとして使えそう(1ゲームに3時間ほど優に要するが)。「我々は計るのではなく、ただひたすらに計られる―」という感じ。

で、何でこんなしょうもないことをゲームやってから2週間も経って書いているのかと言えば、自らの生活の中で最近不連続的なイベントが起こるとか、二値的な決断が目の前に現れる、的なことが起こる(ように思える)というのは、もしかするともっと細かい、着々と積み重ねていくべきものを無視する(そして最後に無理くり帳尻を合わせようとする)スタイルが無意識下に定着していることの帰結ではないか、ということを最近思ったからで、その傍証の最たるものが先日のアグリコラではないか!という気がしたため。この二値的な決断を迫られる様は、百歩譲って結果如何を別としたとしても、あまり精神的にもよろしくない。

なのでもう少し、(精神の安定のためにも)細かなことに対する解像度を上げた生活をしたいものである。

 

ニュー・シネマ・パラダイス

先週目黒シネマで。予想とは裏腹に、自分でもびっくりするほど淡々と見てしまった。おそらく、この話の作者と「良い話」感度の方向性があまりにも異なるのが原因。

大きい所で言えば、子供時代のトトがあまり好みでない(小利に敏いというか、小賢しい系なので)というのがある。これと同時に、総体的にアルフレッドの社会的な側面が貶められるというかやけに軽い方面に行きがちな点もあまり気に入らない(これはあまり現実を知らない感想なのかもしれないが。)。まあ、壁に映画移す件とかも特に感動とかはないし、盲目になってからの突如の賢者的な振る舞いとかもピンと来ず。

呼び声高いラストもそれ程。これは映画の素養がないのが大きいのかもしれないが(というか自分の認知が歪みすぎてて、「魂の殺人」的な話を想起されすらした)。

まあ、街に再び戻ってしまったトト(達)の話が「ワインズバーグ・オハイオ」とも思えば、こちらが自分の性に合わない、というのはさもありなん、という気はする。

ぼくがとぶ

噂はかねてから、的な本であるが、東京堂書店でのフェアで実物(新しい方だが)を初めて見て読む。絵は言わずもがな、話としても(特に飛ぶまで)実に良い。小さい頃に読むべきであった。

 

ぼくがとぶ

ぼくがとぶ

 

 

 

木のぼり男爵

GW中に実行しようと試みたものの中で、唯一完遂できたのが(かねてからの積読であった)この本の読了であったのだが、紛うことなき大傑作であった。これを読めただけで(遊び部分については)お釣りが来るぐらい。

割と昔から、一見突拍子もない内容でありながらきわめて本質的な所を抉る面を見せる、というものへの強い憧れがあるのだが、快活かつヴィヴィッドなコジモ少年と、家族を始めとした何とも珍妙でありながら心惹かれる周囲の人々による奇妙な冒険譚と、その端々に見える自由への意識、さらに人々との別れをはじめとした場面場面でふと夕暮れの如く現れる情緒的な一瞬と、あまりにも見事にそれが顕現している様に言葉もない。そして最後の美しさ。

 

木のぼり男爵 (白水Uブックス)

木のぼり男爵 (白水Uブックス)

 

 

 

石油の「埋蔵量」は誰が決めるのか?

石油の内容が中心だが(ガスとかはそれ程なし)、説明が実に上手く(途中途中の実体験に基づいた雑談が、雑談にも関わらず、全体の話の中でかなり適切な位置を占めていることに感服させられる)、素人でも楽しく読める。