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2017.02.17

Tobias Brandesの訃報を聞く。自分の修論にもろに直結する仕事をやった人(だし、まだ比較的若いはず)なので流石にショックが大きい。

直接会ったのは清水研セミナーで話を聞いた一度のみだったが、その後も(これまた近い分野の仕事をして学位を取ったばかりの)お弟子さんがセミナーに来たり、その時に(自分の)話を聞いてもらう機会があったりだったのであった。

自分は物理側から離れてしまったので、その時点において、その後何か、と言う可能性は既に閉ざされていた(とかいうと何か可能性と言ったものがあり得たかのようだが、無論位置関係としては遠く一方的に仰ぎ見るといったものである)訳だけど、それでも強い空白感を感じる。

ダンジョン飯 4

地下5階にして赤竜登場、ということで早々と収束かと思いきや、まだ続くようで安心(一方で、今巻食べ物色は薄かったような)。

 

 

ぼくの地球を守って

先週の「白泉社kindle本全品50%セール」という恐ろしすぎる(財布にとってのブラックホール的な意味で)*1ものが発生した結果(の一つ)。最近のストレスフルな生活の反動で、毎晩2巻ほど読んで昨日漸く読了。長年の積み残しであり、また一つ思い残しが消化された。

本作、リアルタイムでの連載時にしてから一大ムーブメントを引き起こしたことでも有名だが、確かに滅茶苦茶「仕上がった」作品で引き込み力が凄まじい。正直十数年前に読んでいたら危うかった、と胸を撫で下ろす所もあり。

ではどこが際立った点なのか、という点について正直整理しきれていないのだが、一つはやはり、出て来るキャラクターの「立ち方」と非常に書き込まれた心理描写か。

出てくるメインキャラクター(精神的に非常にWet側で、かつ年齢もあってやや安定感を欠く感じ)で、そうした人たちの(前世という呪縛からの開放へ向かう)自己の確立というテーマを徹底的にうじうじやる(超クローズドな空間で、Wet気質でかつ性格に難がある人が集まってどろどろした話をやる)、という話で、個別の部分を見ると正直違和感が湧いたり、行動原理が理解できなかったり、と言う所はあったりするので、そこを許容できるかどうかはかなり人によるという印象はあるのだが(ただ、サイキック無双要素を入れ込んでみたり、途中で導入され、重要な位置を占めることに成る「キィ・ワード」集め要素、あるいは任侠ナイスガイおじさんが重要な位置づけで登場したり(一方でこの人の行動原理も摩訶不思議ではあるのだが)、とマンネリに陥らぬような試みはかなり意識的になされており、テンポは悪くないという印象)。

後まあもう一歩踏み込んで書くと、幼少期とかに受けた精神的な傷であるとか、いわゆる疎外的な状況など、どのようにしてそうしたものに折り合いをつけていくか、あるいは外部からのどのような働きかけで治癒されうるのかという点が非常に重要な位置づけになっていて、そうした所に関する記述については上手さがあるので、特定の人にとっては引き込まれやすさ(その他の借金を差し引いても)はあると思う。

読み終えて落ち着いた目で見ると、大きなシナリオレベルでも、最終的に亜梨子が輪に惹かれる理由が希薄だな、とか結構不思議な点はある(一方で、落とし所からの逆算的な考え方から言えばまあこれしかないだろう、というので潜在意識的には合意してしまうわけだが)のだが、それでも読ませてしまう所には圧倒的な語りの力を感じる。という訳で、前世的な話に拒否感のない人とか、古文じみた話(読めば直ちに分かるが、個人キャラレベルの展開は猛烈に古文チック)が許容できる人は大いに楽しめるのでは。少なくとも自分は楽しんで読めた。

 

ぼくの地球を守って 1 (白泉社文庫)

ぼくの地球を守って 1 (白泉社文庫)

 

 

 

*1:「普通の」物理プロパーな人は実際の現象や数理的な記述を理解しているし、更に先立って宇宙とかに対する思い入れもあるのでこうした喩えを気軽に使わない印象があるが、自分は一般相対論を十分に理解しているわけでもなければ、宇宙だのに対する思い入れも全くない(むしろ学生時代の経験から、そういうのを臆面もなく出しよる人へのある種の嫌悪感がある)ので、カジュアルな意味で平気で使う。

惑星ソラリス

昨日K'Sシネマで。タルコフスキーの映画を見たことがなかったので良い機会と思って見に行くが、如何せん疲労を溜めた身体で見に行くものではなかった(第一部の途中で寝落ちした。首都高シーンあたりは再び起きてたが)。

それはさておき、こんなにキリスト教色の強い話だったか?などと思ってあとで調べたらやはり結構(原作と)違った様子。そもそも「ソラリスの海」の未知性・意思疎通困難性みたいのが希薄で、妻(象徴としての過去の罪)とどう向き合うか、みたいな話になっているし。しかしそれはそれで(「ソラリス」と思うとあり得ないが、別の話と念じれば)、とか思っていたら最後で結局ソラリスに留まるのかよ、みたいなただの駄目なおじさん話になってしまった。

2017.02.11

朝日杯で八代五段が初優勝、ということで非常にめでたい。四段昇段直後から、かなりの勝ちっぷりを見せていたことや、将棋も切れのあるものだったことから、注目していたので今回かなり手強い所を下しての結果につながって大変喜ばしい。今後も期待します。

真理の探求

年末に読んで以来、ずっと書かねば、と思いつつバタバタしたり自分の中ですっきり腑に落ち切るまでに時間を要したりで、こんな時期になってしまった。

仏教と宇宙物理学の対話」という副題からして、著者名の記載がなければ妖怪アンテナが立ちそうな題材にすら見えるのだが、いざ読み始めると、そのようなキナ臭いものでは全くないのは無論のこと、想像を遥かに上回る興味深い内容であった。

この衝撃への寄与として最も大きいのは、やはり佐々木先生による「大乗」以前の仏教の解説。

「宗教」といった時に(少なくとも素人の自分は)どうしても一神教の、予め与えられた「神」と「教条」があって、「良く生きること」が「来生の幸福」と直結する、といったスタイルが想起され、それに馴染めず距離を感じる、と言う所があるわけだが、ここで紹介される(「大乗」以前の)仏教は、(他で言う)「神」もなく、ある「法則」に従って運動している「世界」があって、その中で(真理を知らずんば一切皆苦の)自分が生きている、という非常に馴染みやすい(ある意味「物理的」な)世界観。

また、この世の法則から自己の主観によって遠ざけられており、理解を深めるために修行を行う(修行組織を「サンガ」という、というのを見てサッカーチームの名称の語源に思い至った)、「アビダルマ」という体系による統一的な理解を図る、といったスタンスも(道具立てこそ異なれど)非常にある意味で類似しているのではないか、ということで、(単純化が施されているのかも知らんが)正直こうした「宗教」があることに驚きを禁じ得ない。

更にこれに加えて、こうした(本来の)仏教がどのようにして、日本に伝わる際によくある「仏教」(大乗仏教)へと変化したのか、なぜ日本の仏教はそれと違い、また中国の大乗仏教とどのような点で異なるのか、などの経緯についても解説され、この辺りは猛烈に面白い。

本書は、全体の構成としては、物理側と仏教側がそれぞれ世界に対する基本的な捉え方を解説して、お互いに質問・対談し合うスタイルなのだが、この辺りでは大栗先生の質問が本質的な所を突きまくる異常な鋭さで、実に刺激的。

他の所での自由意志の件とかは、まあ出るだろうな、という感じで回答も想定の枠内なのだが、それには留まらず、日本にサンガ抜きの大乗仏教が入ってきた理由を問う件では、(明らかに本質的過ぎる質問なので)文字通り読んだ瞬間に寒気に襲われた(未読の人にはぜひ読んでほしい部分ではある)。読んでいるときには自分は全く思い至らず、こういった疑問がリアルタイムで出るところに恐怖を感じさせられる。

また、本書裏表紙にも出てくる、(物理と仏教で示唆される)「人生の目的は予め与えられているものではなく、そもそも生きることに意味はない」という結論についても、その上でどのように個人としてやっていく目的を見出すか、という話に展開していくのだが、ここで非常に面白いのが、ここまでは『(意外に)「科学」に近い「仏教」』、というスタンスの話だったのだが、ここではむしろ『(意外に)「宗教」に近い「科学」』というこれまでと逆の側面が現れているように見えるところ。

どういうことかというと、佐々木先生は「仏教は他の宗教と違って生きる意味を与えない」ので、「自分だけの幸福のあり方を自分で見つけていくことが大事」としており、(ここまでの本来の仏教の教えに基づいた)きわめてストイックな、個人レベルでの「良き生」の追求を行うとしている。

一方で、大栗先生は「研究を通じて新しい発見をした瞬間には、美しい音楽を鑑賞したり、美味しいものを食べたりするときとは質的に違う喜びがあるように思います」とし、「自らの力でこれまで人類が知らなかった何かを見出したということに、深い勝ちがあるように感じられる」、「与えられたものを享受するだけでなく、自分の力で世界に働きかけ、何かを見出したり作り上げたりすることには、価値がある」としている。

一見するとこれも佐々木先生の挙げるスタイル同様の「真理」ー「(研究者)個人」の関係にも見えるが、(おそらく)重要なのは(研究の前提条件としては当たり前の)「これまで人類が知らなかった」という点であり、つまりここでは科学における「良き生」の追求の仕方として、科学に関わる人々(現代においては全人類に近い)の集合があり、そこに対してどのように寄与するか、ということが「良き生」(の前提)を特徴づけている。

すなわち、今や科学における「良き生」はコミュニティの上に特徴づけられる(いかにも「危険」な表現なので念のため補足しておくと、科学における事実関係がコミュニティによってオーソライズされる(相対的なもの)、と言っているわけでは無論ない。事実関係は事実関係として独立に、先までの表現に倣えば「真理」−「探求者としての個人(「人類」とすべきか)」の関係として存在するが、それに対して良いものか否か(平たく言えば、人類にとって既知ならば「勉強」で、そうでなければ「研究成果」となる)はコミュニティ(人類)の知的水準が決めるということ)訳で、これは「教条(といっても既知のものを超えよ、という点に尽きるかと思うが)」に従って「良き生」を求める、という「宗教」的な営みにある種近いのではないか?

これは(多分)必ずしも自明なものではなく、おそらく古くは、情報伝達の限定などから個人のレベルと(ある領域での)コミュニティの「知的水準」がイコールの所が少なからずあり、(本書で紹介された本来の仏教のような)個人レベルでの探求、というのが科学そのものの発展となりうる、という可能性もあり得たのだろうが、アカデミーのようなものの誕生であるとか、その後の相互作用の頻度・伝達速度の加速の中で、科学の発展とともに知的水準が集合そのものの中で定義されるようになって、「宗教」化されてきたということなのだろう(大概のものの発展の歴史とパラレルなきわめて当然のことなのかもしれないが、上手く個人とコミュニティの発展および興味のベクトルを合わせることなくんば「寄与」とはなり難いということなので、今や非人的な真理とまっさらな個人として向かい合うといった形の「個人の救い」としての「科学」は過去の遺物となりつつあるとも言える)。

とまれ、一見相反するような要素を接触させて、そこから興味深いものが生まれる、という形態は(無論両者が本物だから可能になることだが)個人的な志向としても非常に魅力的な分野であり、「科学」と「宗教」という(特に難しそうな)領域でこれ程面白いものが見られたのは非常に良い体験であった。

 

真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話 (幻冬舎新書)

真理の探究 仏教と宇宙物理学の対話 (幻冬舎新書)

 

 

 

旅先で読むその2。「過去は…バラバラにしてやっても石の下から…」的な話(を牙を抜かれたような格好になっている主人公と、罪悪感に苛まれ続ける妻とを中心に描く)で、3部作の中で一番好きかもしれぬ。

最後の禅寺に行く件が取ってつけたよう(でよろしくない)、という意見が多数みたいだが、むしろ(突拍子もなく、自己完結的な)逃避ってこのような形で出るものだと思うのだが。終わりも現代的。

あと、(これは他の作品とかを見てないので的外れの可能性も高いが)この禅寺の話は、公案とかの件を見るに「宗教」というよりは「象牙の塔」に近いという認識をした(なので、割りと冷ややかなのかな、という印象)。

何というか、ここに出てくる(過去の宗助の持っているところの)「合理性」にせよ、禅寺の「真理の探求」にせよ、「生」の側の(そちらの世界での)論理であって、そこの外に出た(「死んだ」)人間に対して意味を持たない、というのが(潜在的に)明らかなので、ああいったむにゃむにゃした否定になるのは、大変分かる気がする(その意味で「死んだ」人に対して可能性として残されているのが、「無償の愛」というか、非合理的な面を残した「宗教」だろうという考えが潜在的に宗助にあって、救いを求めて門を叩きに行った(が、行き先が適切ではなかった)のでは、という推測。あるいは、そうした非合理性を含んだ「宗教」が既に死に絶えた(あるいは、元「合理的」な人間にとっては訪問するなど思いもよらず、実質的に存在しないも同然な)末法の世の中である、ということが前提なのかもしれない)。

門 (新潮文庫)

門 (新潮文庫)